鈎に掛かった鮎が、道糸の緊張に刺戟されて、遁走の行動を開始した表示である。こうなると、もう娘には竿を支えきれない。強く引き戻せば、細い道糸は僅かな、はずみで切れてしまう。やわらかく竿を振れば、竿を持ち去られそうになろう。鮒釣りに数回ほどの経験を持ったのでは、七月の鮎が友釣りの掛け鈎に掛かった場合、到底、その力をあしらいかねるのが当然である。
娘は腕をふるわせ、顔の筋肉を緊張させ、眼をみはり、口でなにか私に訴えようとするのであるけれど、咽《のど》から声が出ない。
私は、娘の手から竿を取った。そして、静かに竿を立て、徐《おもむろ》にあしらいつつ、手許へ引き寄せて、掛かった鮎を手網のなかへ吊るし入れた。長さ七寸あまり、三十五匁はあろうと思う。
瀞場の鮎は、鈎に掛かった瞬間、微少の衝動を目印に感ずるのが、急流の鮎と異なって、鈎に掛かるや否や、男の足でも追いつけないほどの速さで、下流へ[#「下流へ」は底本では「下流で」]走りだしはしない。鈎に掛かった場所から遠方へは走らないで、あたかも鈎の痛さなど知らぬかのように、平然として囮と共に静かに泳いでいるが、ひとたび竿を立てて、道糸に張りをくれる
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