。一生の間、夫婦二人きりで暮らさねばなるまいと思っていたわが家庭へは、十年ばかりの間に幼い五人の天使が舞い降りて、夜が明ければ喧騒と泣き声で、まるで幼稚園のお庭のような賑やかさとなった。
 ところで、私は家内の育児の手際、殊にその気持ちのありどころに対しては、密《ひそ》かに深い注意を払ってきた。そして、自分の子が産まれてからというものは、さらに深刻な疑い深いと思えるほどの眼光を、家内の挙措《きょそ》に注いだのである。
 私には、自分の子よりも、上の二人の子供に不憫が掛かっていた。もちろん、自分の子は可愛い。しかしながら、上の二人の子供は家内にとって血を引いていない。他人である。それが私には不憫の種であった。
 ところが、家内は長い年月私の疑い深い注意など、全く知らぬ風であった。平然として、五人の子供を平等に育てている。それは、心になんのわだかまりもなかったためであったのかも知れない。上の二人の子供に対しても、自分の産んだ子らに対しても、日ごろ少しの分け隔てがないのだ。
 まるで平凡に、誰の眼から見ても、そこになんの区別もつかぬように叱り、賞め、呶鳴り、煽《おだ》て、ただ淡々として子供同志の間に、どんな騒動が持ち上がってもそれを風のように裁き、何事も尋常茶飯の間に扱っている。
 私は、家内の心が神の姿に見えた。

     三

 京都の姉夫婦は、次第に老いてきた。姉はみゑ子を産んだのが、それが妊娠の最後であったらしい。だから姉は、みゑ子に対する愛着が月に歳に募っているという話を、風のたよりにきいていた。佐藤の家には、千鶴子のほかに自ら産んだ子供が三人もあるのであるから、みゑ子を返したところでさびしいことはあるまいと、愚痴をちょいちょいこぼすのであると言う。この、愚痴を既にそのころ故郷から三里ばかり離れたところへ嫁いでいる妹、つまりみゑ子縁組の仲介人のところまで、遙々とこぼしてきたそうである。だが、妹が取り合わなかったので、次に老父のところへ訴えてきた。姉は悲痛愛着の情を父に敍するのである。
 父は、わが娘を憐れに思った。そうだろう、親となれば誰も同じことだ――こんなことを言って姉を慰めたらしい。その後間もなく私のところへみゑ子を京都へ返してやれ、と言ってきた。私も姉の気持ちには同情した。そこで甚だ不鮮明な態度で家内に相談したところ、家内はさっと顔色を変えて、とんでも
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