ありません、と私に武者振りつくように言うのであった。
親戚の人々の噂に、京都でみゑ子を欲しがっているという話を耳にしていましたが、とうとう故郷の方から命令がきましたか。ですが、わたしはみゑ子がなくてはこの世に生きている気がしません。わたしは死んでもみゑ子とは離れません。日本にいると、これから先もそんな要求が絶えずくるかも知れませんから、世間から遠く離れた南米へでも移住しようじゃありませんか。その方が、煩《うるさ》くなくていいでしょう。ねえ、お父さん。
こんな心持ちを、家内は哀心から私に訴えるのであった。子供を幼いときから育てれば、こうも愛が凝集するものかと、私は感動した。
日本を離れるのもよかろうが、それはとにかくとして最後にのっぴきならぬときがきたら、みゑ子の身代わりとして久子を京都へやることにしようか。と言って、私は三番目の女児の名をあげ、家内の心を試した。すると家内は言下に、それで済むことでしたら、是非《ぜひ》それで京都を納得させるようにしてください、と哀願するのだ。
だが、実際問題として、わが子をたとえ自分の姉のところであるにしても、手離せるわけのものではない。また先方にしたところが、みゑ子が欲しいのであって、どの子でもよろしいから、子供が欲しいというわけではない。私は、父の命令を拒絶した。しかし、姉夫婦はあきらめきれず、親戚のあちこちに斡旋方を[#「斡旋方を」は底本では「幹施方を」]頼んできた。これに対してどの親戚も、私ら夫妻の固い信念を知っているので、その橋渡しに手を出したものがない。
四
私は、青年のころから浪費癖を持っていた。それで、故郷や東京を離れ諸国を巡歴し、家庭と共に流れ流れて歩く間に、持てるものを悉く費やし果たした。
そして、鬢髪《びんはつ》に白いものを数える初老の頃になり尾羽打ち枯らして、二十数年振りで故郷の家へ戻ってきた。老父は、冷たい眼で私を見た。嫁いだ妹は、兄を見損なったとかげでいったそうだ。京都の姉に、申訳がないと言って老父にざんげしたという。
でも、私と家内は貧しいなかをなんとか繰りまわし、みゑ子と千鶴子を県立の女学校へ入学させた。故郷へ帰ってきてからの、私の働きはほんとうに乏しいものであった。私は過去を顧み、将来を思い人生の涯を味わっていた。その貧しい間にありながら、妻は何の不平もなく五人の子供を育て
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