れからである』と、この老紳士はなおも語を続けるのである。
四
『そのことがあってから二、三年たった。もう彼の美しい少年は学校を卒業した頃である、と考えていたが朝鮮へやっても来なければ手紙一本来ない。日夜少年の顔を眼に描いて、心待ちに待っていた。ところが大阪の新聞に専門棋士を七人抜いた天才少年棋士のことが載っていて、それがあの時の少年木村義雄と同姓同名であったのを見て私は不思議の感を催していたところ、それから一年後の年始状に将棋六段木村義雄と署名したのが届いた。そのとき私はさてはこういう人であったのか、それでは私をたよって朝鮮くんだりまでくるはずはないと思ったのである。それから十数年たって、今夜ここで棋界の名人木村義雄氏としてあの時の拾い主にお目にかかった訳である。ことの奇縁といい、精神の持ち方といい、回顧してまことに感慨に堪えない』と、語り終わった。これを聞いて私らは、旅はして見るものかな、と思った。老紳士は当時朝鮮銀行秘書課長兼人事課長、現在京城の不二興業専務飯泉幹太氏である。
翌日、木村名人は龍山陸軍病院に白衣の勇士を慰問に行って勇士たちに、『棋略と戦略』という題で
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