ら湧いている。清い、あくまで清い。湯槽の底にある砂と玉石の数が一つ一つ数えられるくらいだ。
 名所は、行って見ると話に聞いたほどでもないのが普通であるが、金剛山だけは話以上に勝れた景観と風物を持っていると出発前に誰かが語った。まさにその通りである。これは、金剛山の偉大と繊細と広さとに接して、誰も適当な形容の言葉を発見し得なかったためであろうけれど、我らも一歩山へ足を踏み入れて呆然《ぼうぜん》たるばかりであった。
 途中、一里半ばかりの六花台までは自動車、それから一里ばかりの万相渓までは山駕籠《やまかご》であった。この駕籠は籐椅子を二本の長い竹に結び、二人の鮮人の舁子《かきて》が担ぐのだが、樽神輿《たるみこし》にでも乗った気持ちで甚だ快い。
 万相渓で駕籠を捨て、いよいよ万物相(岩山の群落の総称)への棧径《さんけい》へかかった。目指すところは天仙台と、天女の化粧壺である[#「化粧壺である」は底本では「化粧壼である」]。内地のどこかに胸突八丁という難路があるが、そんな道は愚かである。約一里の道が、ことごとく爪先上《つまさきのぼ》りだ。雪橋の下からくぐり出す渓水を汲んで渇を癒し、吐息をつきな
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