へ届けた。ほどなく警察から落とし物が発見されたという通知に接したので行って見ると、そこに拾い主であるという久留米絣《くるめかすり》の袷《あわせ》を着た十五、六歳の少年が立っている。財布の中は現金もさることながら重要書類が入っているので私はこの少年に対して深く感謝した。そして規定に従って謝礼金を取ってくれといったが少年は何としても受け取らない。僕は道に落ちていたものが財布であったから落とし主はさぞ困っているのだろうと思ったので直ぐここへ届けただけである。謝礼など貰おうとは思っていないと頑張るのだ。私はその美しい心に感激した。ところで、立会の警官は少年に対して落とし主から拾い主が謝礼を貰うのは、国の定めとなっているから受け取らねばいかん、というので少年は渋々《しぶしぶ》謝金を受け取ったような次第であった。そのとき私は少年に名を聞くと、木村義雄というものでいまはさる商業学校の夜学部へ通っているという。私は、こんな立派な精神を持っている少年なら必ず立派な将来を持つであろうと思ったから、学校を卒業したら朝鮮へ来てくれ、必ず就職の斡旋をするつもりであるから、といって別れたまま今日に及んだが、話はこれからである』と、この老紳士はなおも語を続けるのである。

     四

『そのことがあってから二、三年たった。もう彼の美しい少年は学校を卒業した頃である、と考えていたが朝鮮へやっても来なければ手紙一本来ない。日夜少年の顔を眼に描いて、心待ちに待っていた。ところが大阪の新聞に専門棋士を七人抜いた天才少年棋士のことが載っていて、それがあの時の少年木村義雄と同姓同名であったのを見て私は不思議の感を催していたところ、それから一年後の年始状に将棋六段木村義雄と署名したのが届いた。そのとき私はさてはこういう人であったのか、それでは私をたよって朝鮮くんだりまでくるはずはないと思ったのである。それから十数年たって、今夜ここで棋界の名人木村義雄氏としてあの時の拾い主にお目にかかった訳である。ことの奇縁といい、精神の持ち方といい、回顧してまことに感慨に堪えない』と、語り終わった。これを聞いて私らは、旅はして見るものかな、と思った。老紳士は当時朝鮮銀行秘書課長兼人事課長、現在京城の不二興業専務飯泉幹太氏である。
 翌日、木村名人は龍山陸軍病院に白衣の勇士を慰問に行って勇士たちに、『棋略と戦略』という題で一時間ばかり話をした。
 京城の料理はおいしい。材料も清新であるし、調理のしかたもまことに結構だが、我々東京の者には塩味が少し足りない。これは関西式の料理であるからであろうと思う。
 京城には、なかなか美人がいる。内地婦人は眼につかないけれど、朝鮮婦人はよく眼につく。赤、紫、白、紫紺、黒など思い思いの上着をきて町をぞろぞろ歩いている。ほんとうに朝鮮婦人は外出好きらしい。何れも、涼しい眼を持っている。衣類の格好によるのであろうが、背が高く足が長く見えるところは体格美を感ずる。そして、頭の毛はパーマネントをかけて、もじゃもじゃさせているのが、ほとんどいない。

     五

 中枢院参議金尚会氏という京城では有名な釣り人に案内されて、四月一日から開通された京慶線に乗って漢江の上流へ、探勝に行った。
 その傍ら釣りもやろうというのであったが、まだ季節は早いと見えて漢江の鮒には一匹もお目にかかることが出来なかったのは甚だ残念であった。けれど、八堂という駅の前を流れる漢江は内地では見られぬ大河の相を持っている。広さは、隅田川の二倍ほどもあろうか、蒼《あお》い水を満々とたたえ静かに西北に向かって流れている。深さは三丈から四丈はあるという。その上を、帆をかけた舟が悠々と流れるように東北へいくつもいくつも動いて行くのだ。舟には、鮮人の舟夫が例の美音で款乃《かんだい》を唄っている。
 山の松もいい。岩山には土が浅いと見えて松の育ちは悪いのであるが、育ちが悪いだけに松の枝振りは風流である。浅間火山の六里ヶ原に生えている松に似ている。徳沼という駅の前の河原は、一里もあろうと思うほど広い。白い衣物を着けた鮮人が舟に乗って小さい鮠《はや》を釣っていた。
 朝鮮の棋界は、甚だ盛んである。大阪、名古屋などの次に、京城の棋界は位するものであろうと思う。それに、素人《しろうと》棋士がよく書物を読んでほんとうの棋道に精通しているらしく見えるのは感服に堪えない。朝鮮将棋大会で優勝した人など、まだ三十歳を出たばかりであるが、この人など素人とはいえ熱心に定跡《じょうせき》を学んでいる風がある。この分で行くと、京城の棋界はこれから目覚ましい発達を示すのではないかと考える。
 昌徳宮へ案内された。ここは、昔から朝鮮王が住んでいたところである。宮廷の広さ約十五万坪、なかでも秘園といって特に紹介の人以外に入れない
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