供の時から利根川で、父と共に若鮎に親しんでいた私であるから、ここで鮎の跳ねるのを見て、矢も楯も堪《たま》らなくなったのは当然であった。すぐその足で、小田原町本町一丁目の『猫』という異名を持つ釣り道具屋へ訪ねて行って、竿と毛鈎を求めたのである。まだその頃は、関東地方へきている加賀鈎や土佐鈎の種類も少なく、私は青お染、日ぐらし、吉野、そのほか二、三を選んだのであった。
 竿は、若鮎竿として我が意を得たものがなかったから、長さ二間ばかりの東京出来の鮒竿で、割合にしっかりしたものを買った。その頃、小田原地方では静岡地方と同じように、加賀鈎や土佐鈎を使う沈み釣りを、石川釣りといって、ドブ釣りとはいわなかった。ドブ釣りとは、多摩川を中心とした釣り人が造った言葉であったからだろう。
 石川釣りをやる人も、まだ酒匂川筋では稀であって、多くは石亀《いしがめ》(川虫)を餌にした虫釣りか、十本五銭位で買える菜種鈎《なたねばり》という黄色い粗末な毛鈎で、浮木《うき》流しをやっているのと、職業漁師が友釣りとゴロ引きをやっていた。
 六月一日の鮎漁解禁日がくると、引き続いて毎日出かけた。利根川式の鈎合わせで釣ると
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