値段が急騰しないうちに、という用心である。
 そして、この一本飲み終えたのちは、もうどんなに値段が高くなってもかまわない。人生を諦めると大きく構えて落ちつきはじめた。
 四斗樽を買い込んだ翌日、――君にもあの音を聞かせてやりたいね、実にたまらんよ。僕のところのお勝手は、手ぜまなものだから、四斗樽を玄関へ据えつけた。昨夜おそく仕事から帰ってきて、僕が茶の間の餉台《ちゃぶだい》の前へ胡座《あぐら》をかいていると、女房が片口を持って玄関の方へ出て行った。すると、ややあって、ゴクという音がするのだ。それから、二息三息してからゴクという響きがする。女房が、樽の口を引いたらしいのだ。折りから夜半の一時近い頃だから、近所となりは深閑としている。ゴク、という音が玄関の三和土《たたき》の土間に反響して、何とも快い律調を耳に伝えるじゃないか。この音を聞いただけで、もう僕は往生を遂げても、かまわんと思ったよ。それから、いいあんばいに燗をつけて、一献咽へ奉ると、その落ちのいいこと。どうだい、君も一本四斗樽と買い込んでは。
 冗談じゃない、俺にはそんな銭はないよ。それは気の毒だ。では夜半すぎに毎晩僕のところの玄
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