私は、用事一切を抛《ほお》りだして館林へかけつけたのである。
多田常務の説明するところによると、この鹿は野州奥日光川治温泉から、さらに七里奥山へ分け入った湯西川の源流に聳える明神岳の中腹で知合の猟師が大晦日に撃ちとったのであるという。
その猟師から元日に電報があり、すぐ使者を山へ走らせて肉を三貫目ばかり運ばせたのであるが、二人で三貫目食えるだろうかと笑うのである。しかしそれは無理だ。
まず、葱と牛蒡と豆腐を加役とし、鹿肉の味噌汁を作った。味噌は正田醸造の特製とはいえ素晴らしい鹿汁である。まるで、臭みがない。
鹿の肉には、一種の臭みがあるのが普通である。だが、寒中に獲れた鹿から腸を去り皮を剥ぎ、枝肉として一夜積雪の土に埋めて置くと、あの臭みはあとかたもなく散じてしまうといわれているが、この鹿肉もそういう手当てをしたに違いないと思う。それに葱と牛蒡とを加えたのが役に立ち、しかもほんとうの上味噌が用いてある。
殊に、鹿は日光の二荒山、赤薙山、太郎山、明神岳あたりを中心とした連山で晩秋の交尾期が去って雪を迎えた頃とれたものを随一と伝えられたから、私は正に鹿の絶醤に恵まれたわけである。
前へ
次へ
全9ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐藤 垢石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング