今年は、運が向いてくるかも知れぬ。瑞兆といってよかろう。
 次に、焼肉が出た。これはやわらかい上に、味品秀調である。歯の悪い私などでも、顎にさまで力を入れぬでもよい。啖《くら》うて舌に載せると、溶けてそのまま咽へ落ちて行く。
 羊や猪や、牛や豚、狐の焼肉など及びもつかない。露国の探検家アルセニエフの烏蘇里紀行を読むと、彼が沿海洲のシホテアリン山脈の奥で、しばしば烏蘇里鹿を撃ち、それを焼いて食うところを描いている。私はそれを読みながら、舌に唾液を絡ませて、アルセニエフの口中に沁みわたる美味を想像していたのであるが、今回ははからずも老友のおかげで麋鹿《びろく》の焙熱にめぐり会ったわけである。
「君、それは指でつまんで食うものだよ」
 と多田老にいわれて気がついてみると、私は鹿肉を箸ではさんでいた。まことに、お恥ずかしき次第である。
 元来、食べものは汁物は別として、なんでも指先でつまんで食べるのが一番おいしいのである。箸など使うのは、虚飾外見というものであろう。
 西洋人も、つい近年までは、物を指先でつまんで食べていたのである。フォークが英国に入ったのは千六百六十八年に、伊太利をへてコ
前へ 次へ
全9ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐藤 垢石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング