が、同じく三十五杯。
 十六文盛りの蕎麥というのが、どのくらいの量であるか分からないが、わが木村名人も文化、天保のころの仁であったならば、この競技会へ自信たっぷりで出場する力量があったにちがいない。

  二

 文化の大食会のときには、丸屋助兵衛というのが饅頭五十、羊羹七竿、薄皮餅三十、茶十九杯をあおってナンバーワンとなり、次席が三升入りの大盃に酒六盃半をのみ、続いて水十七杯をあおった鯉屋利兵衛、めし五十四杯を掻っ込み、醤油二合をすすった泉屋吉蔵という順序で見物人の胆を奪ったのである。めしの十五杯や二十杯、酒の三升や五升をのんだのは、ものの数ではなかったのであろう。
 天保の、万八樓の会は壮観であった。入口に受付の帳場を設え、来会者を次から次へ住所、氏名年齢、職業を記入する。来会者百六十二人、受付の次の間には羽織袴をつけた接待役が十人、客を待ち受けている。なかなかの配慮である。
 選手が受付を通過してくると、まず予選として膳に向かわせ、飯の高盛り十五杯と汁五杯を勧める。米は肥後の上白、味噌は岡崎の八丁味噌、出しは北国の昆布、椀は一合五勺はたっぷり入る大ものだが、選手として自らを任じて
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