食指談
佐藤垢石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蕗《ふき》の苔《とう》
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  一

 蕎麥は、春蕎麥よりも秋蕎麥の方が、味香共に豊かであると昔からいわれているが、その理屈はともかくとして、このほど上州赤城の中腹室沢の金子豊君から贈って貰った秋蕎麥は、近年まれにおいしかった。老妻が麺棒を握って額から汗を流している間に、私は疎開のとき東京から持ってきた霞網を麥田と菜畑との間に張って雀数羽を獲り、これを汁のなかへ入れて雀蕎麥を作ったところ、これが甚だ珍味であったのである。折柄、屋敷の隅の老梅の根方に、蕗《ふき》の苔《とう》が小さい頭をだしていたので、これをつまんで薬味として加えたところ、鼻の奥に涼香漂い舌端に爽烈の気を呼んで、思いがけなく心に佳饌の趣を催したのであった。
 しかしながら、上州の蕎麥の味は、信州の蕎麥には及ばぬと思う。就中《なかんづく》、富士見高原の蕎麥を絶讃したい。
 富士見でも、高原療養所の小使が打った蕎麥が素敵である。釣友正木不如丘博士が療養所の院長であるが、富士見に香味優れた蕎麥と、蕎麥打ちの名手を小使として抱えていることが、院長の日ごろの自慢であるのである。数年前の盛夏、諏訪の霧ヶ峯へ博士の先導で友人数名と共に登ったことがある。そのときも博士は、山巓《さんてん》の草原まで小使手打ちの自慢の蕎麥切りを運ばせてきて、青空の下に嗜遊の宴を振舞った。よくもまあ、かくも細く長く切れたものであると思うほど、蕎麥は気品高く切れてある。つなぎの種は、山芋であるか鶏卵であるか語らなかったけれど、小使さんの腕はたしかに自慢するだけのことはある。
 その後、蕎麥が食べたくなるたびに、信州富士見まで出かけて行くのは骨が折れるといったところ、博士はしからば東京まで持ってこようという。早春のころ博士は、小使に打たせた蕎麥を、その小使に背負わせて運んできた。これを、麻布のさる料亭へ持ち込んで食べることにしたのであるが、蕎麥はゆで加減が身上であるから、料亭の板場に委せられない。そこで、わざわざ小使を信州から連れてきた次第であるという説明をききながら、私らは食った食った。
 私は、親椀に八、九杯は胃の腑へ流し込んだであろう。だが、私の胃袋の面積は人間並みであるから馬や牛のようにはいけなかった。ところで驚いたのは、將棋の木村義雄名人である。いつまでも、食べやまない。結局一人で揚笊《あげざる》に山に盛った蕎麥切りを平らげてしまった。この量は私が食べた十倍はあるであろう。一体、腹のどこへ入るのか、胃袋の雑作はどんな風にできているのか、同座の連中名人の豪啖に悉くあきれてしまった。
 漫画の麻生豊画伯が、貴公どんな具合か腹を見せないかというと、名人は胸を開いた。一同これをのぞき込んだが、別段大してふくれてもいない。いまの一笊はどこへ入っているのであろうと思う。
 博士が、まだ一笊料理場の方にある筈だから、もう少しどうかな、とからかうと、
「もはや、叶わぬ」
 と、呟いて、名人は横に手を振った。
 文化十四年二月十三日に、江戸両国の柳橋に、大食競演会というのが開かれたことがある。これへ出席した選手桐屋五左衛門というのは、蕎麥五十七杯を食ったあとで、三合入りの盞で酒二十七盃をのんでから、めし三杯に茶九杯を喫し、さらに甚句を唄って躍りだしたという剛の者であった。次に、天保二年九月七日やはり柳橋万八樓で催した大食会では、市ヶ谷大原町木具職遠州屋甚七というのが、十六文盛りの蕎麥四十二杯を平らげ、御船方の国安力之助が三十六杯、浅草の神主板垣平馬が、同じく三十五杯。
 十六文盛りの蕎麥というのが、どのくらいの量であるか分からないが、わが木村名人も文化、天保のころの仁であったならば、この競技会へ自信たっぷりで出場する力量があったにちがいない。

  二

 文化の大食会のときには、丸屋助兵衛というのが饅頭五十、羊羹七竿、薄皮餅三十、茶十九杯をあおってナンバーワンとなり、次席が三升入りの大盃に酒六盃半をのみ、続いて水十七杯をあおった鯉屋利兵衛、めし五十四杯を掻っ込み、醤油二合をすすった泉屋吉蔵という順序で見物人の胆を奪ったのである。めしの十五杯や二十杯、酒の三升や五升をのんだのは、ものの数ではなかったのであろう。
 天保の、万八樓の会は壮観であった。入口に受付の帳場を設え、来会者を次から次へ住所、氏名年齢、職業を記入する。来会者百六十二人、受付の次の間には羽織袴をつけた接待役が十人、客を待ち受けている。なかなかの配慮である。
 選手が受付を通過してくると、まず予選として膳に向かわせ、飯の高盛り十五杯と汁五杯を勧める。米は肥後の上白、味噌は岡崎の八丁味噌、出しは北国の昆布、椀は一合五勺はたっぷり入る大ものだが、選手として自らを任じて
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