集まった勇猛の人々であるから、これしきの風景では胆を冷やすような仁は一人もいない。しからばご免、と挨拶して競って箸をとり、椀の尻を握り、食うは食うはぺろりと食って予選通過は易々たるもの、落伍者は極めて少数であったという。
さて、選手達は本会場へ入ってみて、そのものものしさに驚いた。大広間である会場には目付方が三人控えて四方に眼をくばり、算盤を手にした計算方が三人、三人の記録方は机を前にして粛として座す。やがて席次が定まって丸く座についた百数十人の選手、臍下丹田に力を入れて、ぱくつきはじめた。咽を鳴らす音、めしをかむ歯の響き、汁を吸う舌打ち、がぶがぶ呷《あお》る大盃に吐くため息。しばしがほどは、銀座街頭の跫音雑声よりも喧《かま》びすしい。
かくて激戦の末、後世まで名を遺した記録保持者は二十四、五人の多きを数えたのである。出羽新座主殿の家来田村彦之助は、四文揚げの天麩羅《てんぷら》三百四十を食った。永井肥前守の家来辻貞叔は大福餅三百二十を平らげ、江戸堀江町の家主清水徳兵衛は鰻七貫目分の蒲焼きと飯五人前をぺろりとやってのけた。雷権太夫の弟子である玉嵐龍太郎は酒二升に飯二十杯、汁十八杯を片づけてけろり。神田三河町呉服屋の小松屋宗七は、十六文盛りの汁粉三十二杯。一樽三百箇入り梅干二樽を食って、すっぱい顔しなかったのは深川霊岸寺前の石屋京屋多七。たくあん二十本を噛った下総葛西村の百姓藤十郎という猛者もいた。
変わったのは、長さ七寸の鰹節五本を、がりがりやってしまった深川の漬物商加賀屋周助、蜜柑五百五個を食った桜田備前町料理屋太田屋嘉兵衛などである。両国米沢町の権次というのは山鯨十五人前。油揚げ百五十枚が、下谷御成道建具屋金八。一把七、八十房ずつついた唐辛子三把を食った神田小柳町の車力徳之助という閻魔《えんま》のような怪漢もあった。四文ずつの鮨代金にして一朱を胃袋へ送ったのは、照降町煙管屋の村田屋彦八。
元大阪町の手習師匠今井良輔は生葱十把を食い、谷中水茶屋の榊屋伊兵衛は、醤油一升八合をのんだ。塩三合をなめたのが、清水家の家臣金山半三郎、生豆三合に水一升を平らげた馬のような男は両国の芸人松井源水。最後に、小梅小倉庵の若者勇吉というのは、黒砂糖四斤をなめた。
三
この正月のはじめ、上州館林正田醤油の多田常務から、鹿の肉が手に入ったから、すぐこいという飛電に接した。私は、用事一切を抛《ほお》りだして館林へかけつけたのである。
多田常務の説明するところによると、この鹿は野州奥日光川治温泉から、さらに七里奥山へ分け入った湯西川の源流に聳える明神岳の中腹で知合の猟師が大晦日に撃ちとったのであるという。
その猟師から元日に電報があり、すぐ使者を山へ走らせて肉を三貫目ばかり運ばせたのであるが、二人で三貫目食えるだろうかと笑うのである。しかしそれは無理だ。
まず、葱と牛蒡と豆腐を加役とし、鹿肉の味噌汁を作った。味噌は正田醸造の特製とはいえ素晴らしい鹿汁である。まるで、臭みがない。
鹿の肉には、一種の臭みがあるのが普通である。だが、寒中に獲れた鹿から腸を去り皮を剥ぎ、枝肉として一夜積雪の土に埋めて置くと、あの臭みはあとかたもなく散じてしまうといわれているが、この鹿肉もそういう手当てをしたに違いないと思う。それに葱と牛蒡とを加えたのが役に立ち、しかもほんとうの上味噌が用いてある。
殊に、鹿は日光の二荒山、赤薙山、太郎山、明神岳あたりを中心とした連山で晩秋の交尾期が去って雪を迎えた頃とれたものを随一と伝えられたから、私は正に鹿の絶醤に恵まれたわけである。
今年は、運が向いてくるかも知れぬ。瑞兆といってよかろう。
次に、焼肉が出た。これはやわらかい上に、味品秀調である。歯の悪い私などでも、顎にさまで力を入れぬでもよい。啖《くら》うて舌に載せると、溶けてそのまま咽へ落ちて行く。
羊や猪や、牛や豚、狐の焼肉など及びもつかない。露国の探検家アルセニエフの烏蘇里紀行を読むと、彼が沿海洲のシホテアリン山脈の奥で、しばしば烏蘇里鹿を撃ち、それを焼いて食うところを描いている。私はそれを読みながら、舌に唾液を絡ませて、アルセニエフの口中に沁みわたる美味を想像していたのであるが、今回ははからずも老友のおかげで麋鹿《びろく》の焙熱にめぐり会ったわけである。
「君、それは指でつまんで食うものだよ」
と多田老にいわれて気がついてみると、私は鹿肉を箸ではさんでいた。まことに、お恥ずかしき次第である。
元来、食べものは汁物は別として、なんでも指先でつまんで食べるのが一番おいしいのである。箸など使うのは、虚飾外見というものであろう。
西洋人も、つい近年までは、物を指先でつまんで食べていたのである。フォークが英国に入ったのは千六百六十八年に、伊太利をへてコ
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