ろう。国民をもれなく平等に、欠くるところなく賄うのは、まことに困難な業《わざ》だ。
さればこそ、このむずかしい、世相になっても、主食物だけは心配しないで過ごしていられる。ほんとうにありがたい政治である。我々は、からだの動けるうちは、軍需の方にも、生産の方にも、能うだけの力をだして、国の求むるところに添うて行かねばならないのである。まだまだ国民には、体力的にも精神的にも、蓄積と源泉とがある。
そこで、全国には我々以上に、配給制度に対して、感謝しているものが発生した。統制経済の恵みに浴して、はじめて人並みの食べ物を頂戴できる人達が現われた。
私の家には、群馬郡清里村大字青梨に親戚がある。青梨は、私の村から一里半ばかり北方の榛名山の裾にあり、わが村から指してこの方面を上郷といい、岡場とも称した。岡場に対して私の村の方は米を産するから田場と称するのである。米の稔らぬ岡場に対し、米を産する田場の者は、子供までが優越感を持っていたのだ。つまり、田場のひとりよがりなのだ。
もう、五十年も前の話だ。青梨の親戚から、時折り私と同年輩の子供が客にくる。私らはその子供に、君が来ると上新田の頬白《ほほじろ》がひどく喜ぶよ。と、いっていつもからかうのである。青梨の子供は、それをいわれるのをひどく嫌ったものである。
そのわけは、青梨は山の麓であるから稲田がなくて、畑や開墾地を耕作する地方だから、粟と稗を常食にしている。そこで、これも粟と稗を常食にしている頬白が、君の姿を見て仲間が来たといって喜ぶという悪口だ。
夕方がきて、風呂を沸かす。青梨の子供が、着物を脱ぎはじめると、おいおい君、おいおい君、抱き石をやろうかと、また悪まれ口を叩く。
と、いうのは日ごろ上郷の連中は、稗や粟ばかり食べているから下腹が軽石のように軽い。風呂に入ると、からだが転倒して、お尻が湯の上へ出てしまうという謎なのだ。そして、おいおい君、米のめしをうんと食って帰りな。でないと、勉強ができないよ。などと子供であるから、ふざけ放題。
世の中が配給制度になる前の、群馬郡北部地方である国府、駒寄、清里、金古、上郊の久留馬、車郷、桃井その他の榛名の中腹、あるいは山麓地方に連なる村の食糧状況を調べてみると米は一日一人一合当たりしか食べていなかった。他はその地方の農産物の都合で甘藷や里芋、麥と馬鈴薯、粟、稗、唐黍といった類
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