の穀物を混食してきたのである。
だから、山麓地方の農民は米を主食しなかったのである。つまり、雑穀をところの産物によって、選り好みせず大いに食って、大いに働いてきたのだ。
そして、水田はないけれど桑畑が見渡す限りひろがっている。それで蚕を養って繭を売り、その金で米を移入して、米の滋味に浴してきた。
しかるところ、配給制度になってからというもの、平野の農民と同じに、一人当たり二合以上の割りあてを受けることになったのだ。つまり、従来に比して、倍以上の米を頂戴する幸運にめぐり合ったわけで、統制経済は岡場の人々の雑穀時代を、新世紀に導いたのである。
岡場の人に取っては、戦争のおかげといったようなものであったろう。
これを飜って考えてみると今日まで米を常食しなかった地方にまで、米を配給することになったのであるから、米の需要はますます増加するばかりである。群馬郡の北部などはまだやさしい。
多野、北甘、碓氷、吾妻、利根など、群馬県は殆どその大半が山間部だ。黍粉《きびこ》のお焼きや、粟粥の本場だ。
利根郡の奥には、振り米の話さえある。東村や片品村の南会津に近い山家では、病人の死際には、少量の米を竹の筒に入れ、これを病人の耳許で振って、せめて米の音でも聞かせたのであるという。
生まれて以来米を食ってみることができない地方であったという例え話である。実際はそれほどでもあるまいが、片品川の畔の追貝付近や、尾瀬に近い戸倉あたりは、昔から水田に乏しく、歌留多ほどの山田が、峡のかげに僅かに見えるばかりである。
多野郡の奥の裏秩父に接する中里村、上野村、万場方面へ行くともっとひどい。米など愚かなこと、砂糖を知らなかった昔があったという。だのに、三、四年来は米の配給、砂糖の配給、牛豚肉の配給、魚の配給、時には、洋服の下へ着るワイシャツの配給、靴下の配給、山の人々は眼を丸くした。はじめてのほどは、砂糖など平常用いると、山人の自然生活を損なうものであるといって配給を拒絶した。海の魚など、おっかねえと叫んで手も触れなかった。
海の魚といえば、我々上州の中央の平野に生まれたものでも、大都会である前橋ではじめて電灯ちう怪物を、腰を跼《かが》めて見物するところまでは、蒲鉾《かまぼこ》は板にはり付いて泳いでいるもの、鰊《にしん》は頭がなく乾いたままで生活するもの、鮭の塩引きは切り身のままで糸に
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