がある。利根川、白砂沢、また、花咲峠から渓水を運んでくる塗川にも渓流魚は豊富である。仏法僧で名高い迦葉《かしょう》山に源を持つ発知川と池田川は、幽邃《ゆうすい》そのものだ。
 関東平野の北端、秀峰榛名の麓から西南の遠い空を望むと、甲州の八ヶ岳が雲表に突き出ている。里の村々では、まだ夏が去ったばかりであるという頃に、八ヶ岳の頂《いただき》には白い雪が降る。その初雪が解けて流れてくるのであろうか、裏秩父の神流《かんな》川には、水晶のように清い水が淙々《そうそう》と音を立てている。
 信越線新町駅に下車して藤岡、鬼石と過ぎ、冬桜で世に聞こえた三波川の合流点まで行けば、秩父古生層が赤裸の肌を現わして、渓流に点在する奇岩に、釣り人は眼をみはるであろう。岩と岩の間は瀬となり渓と変わり、流相の変化応接にいとまがないが、深淵に大きな山女魚が悠々と泳ぐさまは見のがすまい。
 万場の町から上流は、都会人が釣り旅に入るは甚だまれである。中野村、上野村と行けば渓流魚の桃源郷だ。流れの落ち込みに、自然のままに山女魚や岩魚が戯《たわむ》れている。人ずれしない魚は、誰の鈎にもたやすく掛かる。
 奥秩父の三峰川と、中津川にも近年まで渓流魚は数多かったが、近頃は職業漁師と都会人のために漁《と》り尽くされてしまった。
 浅間火山の北麓、六里ヶ原を流れる幾筋もの渓流にも、山女魚と鱒の姿の大きなものが棲んでいる。地蔵川、熊川、応桑用水、濁り川、赤川などの山女魚は、山にまだ早春の寒い気がとどまっている四月ともなれば、盛んに水面に活躍して鈎に飛びつく。殊に応桑田の一匡邑《いっきょうゆう》の近くには魚が濃く、同じ釣り場に幾回毛鈎を打っても跳ね上がってくる。法政大学村の中央を流れる熊川の山女魚は大きい。俗に銀山女魚といわれる魚で、鱗が白銀色に光って美しいのであり、濁り川は、鬼の押し出し所に湧きでるが、密林が深く夏場は分け入るのに困難だ。しかし、一度分け入れば悉《ことごと》く処女地である。二間の竿に、二尺の道糸をつけ、落ち込みに餌を下げると、文句なしにグイと引き込む。次の釣り場も、次の釣り場も同じである。
 ただ注意せねばならぬのは大きな熊が鬼の押し出しから遊びに出てくることだ。熊は山独活《やまうど》の根を大そう好物としている。初夏の頃には、川べりの湿地に出て、山独活を掘りながら戯れているから、大声で歌でもうたって行けば先方で逃げよう。
 筆者も昨年、この川の緑に生い茂る芒《すすき》原の中で大熊に出会い、命からがら一匡邑近くまで飛び帰ったことがあった。
 高山には、いつまでも冬が残っている。六里ヶ原の原頭に立って、越後の方の遠い深い山から吹いてくる北の風に棚引いて、浅間の噴煙が武蔵国の方へ流れ行く雄大な展望に接し得るのは、山の釣り人が持つ特権だ。

       六

 東京に近い川で山女魚の棲んでいるのは、奥多摩の本流とその支流日原川と、秋川とである。だが、東京に近いだけに交通の便がよく、約二、三年漁期に入ると一竿を肩にした人々が、我れも我れもと押しかけるので、既に早春のうちに漁《と》り尽くしてしまう。とりわけ、今春は渓流魚釣りの熱が都会に普及してきたので、日原川の山女魚は種も尽きよう、という有様となった。
 秋川も、一両年後に釣り尽くされるであろう。禁漁中の二月から、釣り人が入り込んで、まだ産卵後の、体力の回復しない黒く錆《さ》びた肌の山女魚を五十、百と毎日釣ってきた人もある。何とかこのさい取り締まりを厳重にしないと、多摩川筋の山女魚は絶滅してしまうかも知れない。近年は大量的に虹鱒と川鱒の放流を行なっている。だが、日本独特の山女魚が多摩川から姿を消していこうとするのは、まことに悲しむべき事実である。
 甲州へ入ると、山女魚と岩魚が多い。|甲武信ヶ岳《こぶしがたけ》の密林から出てくる笛吹川、甲斐駒の肩に源を持つ釜無川、金峰山の本谷川、御岳昇仙峡の荒川など、何れも釣り人憧憬の渓である。ところが甲州と信州の人々は、渓に毒を流して魚をとる悪い癖を持っている。先年富士見に別荘を持っている小川平吉氏が、釜無川に毒を投げ込み山女魚と岩魚を四斗樽に二、三杯もとったという噂があったが、もしほんとうであったら、もってのほかだ。
 笛吹川と釜無川は鰍《かじか》沢で合して富士川となり、俄然《がぜん》大河の相を備えて岩に砕け、滔々《とうとう》の響きを天に鳴らして東海道岩淵まで奔下し太平洋へ注いでいるが、その途中の山から出てくる幾筋もの支流では、関西系の美しい山女魚がいくらでも釣れる。
 早川、常葉川、波木井川、福士川、佐野川、稲子川、芝川など、何れの川も釣り場として好適である。殊に白根三山の雄、北岳の墨樺から流れ出る野呂川、つまり早川の上流は西山温泉や奈良田付近に素晴らしく渓流魚が棲み、そして形が
前へ 次へ
全6ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐藤 垢石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング