大きい。また、芝川上流にある静岡県の養鱒場は、釣り人の一度は視察しておくべきところであろう。
 信州の梓《あずさ》川は、岩魚の釣り場としてあまりにも有名である。それだけに四、五年前に比べると、魚の数は減った。奥飛騨の高原川の上流は笠ヶ岳近くで蒲田川となる。この雪を孕《はら》んだ渓谷には、まだ人の姿を見たことのない岩魚がいる。黒部川も岩魚の産地だ。しかし、近年は五色原の方まで分け入らなければ、一日に一貫目とは釣れないようになった。
 神通川の上流は、裏飛騨へ入って宮川という。高山から飛越国境の蟹寺までの間、二十里ばかり、宮川は奔馬《ほんば》のように急勾配の渓底を駆け下《くだ》っている。恐ろしいほど荒い川である。この川の、巣の内と打保の間の激湍《げきたん》で釣れる尺鮎は全国的に有名だが、この川に注ぐ多くの渓流に岩魚釣りの処女地が無数にあるのは、あまり知られていない。
 いったい裏飛騨の漁師は、岩魚を釣っても売り場がないから糧《かて》に代えるわけにいかぬ。そこで岩魚や山女魚は顧《かえり》みないのである。一両年前から飛越線が通じて旅行者が訪れるようになったが、八月から九月へかけては鮎の友釣りにばかり専念して、渓水に岩魚を追う人は極めてまれだ。登山の季節にここまで遠征することを、都会の釣り人にすすめたいと思う。
 伊豆から東海道へかけても、釣り場は沢山ある。伊豆温泉の松川は、伊豆の町から一里も遡ればもう釣り場である。狩野川の上流、湯ヶ島温泉付近も魚は濃い。支流の大見川は、修善寺橋|上《かみ》手の合流点から十五、六町離れれば、大きな山女魚が深い淵に泳いでいるのを見る。丹野の方から流れ出て大見へ入る小さい渓流の年川も、立派な山女魚が棲んでいるのでほんとうに見のがせない釣り場である。
 興津川は鮎ばかりの流れではない。中流小島村付近から上流には清い流れの底を佳麗な山女魚が楚々《そそ》として泳いでいる。
 京都付近の諸渓流にも、また九州にも釣り場は沢山ある。神国|日向《ひゅうが》の美々津川の上流へは、まだ山女魚を志して分け入った釣り人は全くあるまい。
 台湾大甲渓の山女魚は、先年大島正満博士が原住民と共に銛《もり》と筌《やな》で漁《あさ》り、鮭科の魚の分布に関して学問上の報告を出したので有名である。

       七

 渓流魚の釣趣を味わうのは、大したむずかしい道具立てはいらぬ。餌釣りには二間か二間半のやわらかくて、そして軽い竿。道糸は秋田の渋糸の十五|撚《よ》りか二十撚りを竿の長さだけつけるのである。鈎素《はりす》は磨きテグスの一厘か一厘半で、鈎は袖型の七、八分がよかろう。錘《おもり》は調節を自由にするため、板鉛を使う。そして、魚の餌にからまる振舞を、速やかにきくのに都合がいいように、道糸の途中に水鳥の白羽を目印としてつけるのである。
 餌は川虫、山葡萄の蔓虫、鰍の卵、虎杖《いたどり》の虫、柳の虫、蚯蚓《みみず》、栗の虫、蜻蛉《とんぼ》、虻《あぶ》、蝶、蜘蛛《くも》、芋虫、白樺の虫、鱒の卵、鮭の卵、川|百足《むかで》、黄金虫、蟹などで、何でも食う。
 道糸を流れの落ち込みや、瀬脇へ振り込んで下流へ流してくる途中、山女魚が餌をくわえれば、水鳥の白羽の目印が微かに揺曳《ようえい》する。そこで、すかさず鈎合わせをすれば魚の口にガッチリと掛かる。引く、引く、山女魚は渾身の力を尾鰭にこめて逸走の動作に帰るのだ。
 毛鈎の竿は、短いものが都合がいい。九尺くらいか長くて一丈一尺もあれば充分である。道糸は馬尾《ばす》糸を幾本にも撚ったもの、竿三、四尺短くつける。鈎素《はりす》は上等テグスの三、四厘を二尺くらい。鈎は、鶏の襟毛、孔雀《くじゃく》の羽毛、山鳥の羽などで昆虫の羽虫に似せて巻くのである。筋さえ覚えれば、素人《しろうと》でもたやすく巻けるのである。
 チョンと瀬の水面へ毛鈎を振り落とすと、鈎が水につくかつかぬというのに山女魚は、猛然と岩かげから躍り出て飛びつく。合わせる。毛鈎釣りは、鈎合わせに早過ぎるということがない。
 釣った山女魚を白焼きにして、まだ温かいうち生《き》醤油で食べれば、舌先に溶ける。さらに田楽《でんがく》焼きの魅惑的な味は、晩酌の膳に山の酒でも思わず一献を過ごす。

       八

 史記に、支那文化黎明時代、人に穀食を教え、医薬を発見した神農は、舌をもって草を舐《な》め、その味によって種別した、とあり、齊の桓公の料理人易牙は、形の美を謂《い》わずして味の漿《しょう》を嗜《たしな》んだ、という。
 そこで、さき頃筆者が、山女魚と亜米利加《あめりか》系鱒を携え日本料理人組合会の最高幹部という仁に示し、その判別を試みたところ、ついに鑑識《かんしき》を得なかった。また、豚の肝臓をもって飼養した味品まことに卑なる川鱒と生蝦の餌で育った
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