とに心酔している人があるが、それは人々の好みによることであるから、いずれの味品がよいか俄に断じきれない。
友釣りで釣ったばかりの鮎を、河原で石焼きにした風味と、山女魚や岩魚を山径の傍らで俄《にわか》作りの熊笹の串に刺し、塩をまぶして焙《あぶ》った淡味とは、ともに異なった環境を心に配して、それぞれ独特の食趣を舌に覚えるのである。
だが、山は無言である。谷は幽寂である、山女魚ひとりが、淋冷《りんれい》を破って、水面に跳躍する。なんと、人の釣意《ちょうい》をそそるではないか。
背負い袋に、米と塩を詰めて山へ行こう。深い峡谷を訪ねよう。
渓流魚の一番沢山棲んでいるのは、何といっても日光を中心として東は鬼怒川へ、西は利根川へ流れ出る諸渓流である。そのうちでも、鬼怒川へ集まるいくつもの谷川には、殊に山女魚や岩魚が多い。
鬼怒川温泉の上流新藤原で電車を降り、川治温泉で鬼怒川と分かれる男鹿《おじか》川をたどり、会津境の中三依に至れば、山女魚が相混じって鈎に掛かる。さらに不動滝を越えた上三依は岩魚の本場である。会津の枯木山の方から流れ出て、男鹿へ注ぐ湯西川は、相貌《そうぼう》甚だ複雑である。激湍《げきたん》岩を咬《か》んで、白泡|宙空《ちゅうくう》に散るさま、ほんとうに夏なお寒い。一つ石の集落と、湯西川温泉を過ぎ、高手の村をはずれれば川は峡の底を流れて、鬼気人に迫るの感がある。山女魚と岩魚が無数だ。熊も出る。
湯西川の源流から藤ヶ崎峠を越えて右すれば馬坂沢、左すれば土呂部渓谷である。共に鬼怒の奔流へ注ぐ。まだ都会の釣り人が足を印したことのないといわれる釣り場だ。裏日光、八千尺の太郎山の峭壁《しょうへき》を睨《にら》んで釣る姿、寂しさそのものであると思う。
川治温泉から鬼怒川本流を遡り、青柳平と黒部を過ぎ、川俣温泉へ辿《たど》りつけば岩魚の仙境だ。さらに日光沢温泉、八丁湯のあるところは谷が深い。
奥日光、湯川と湯の湖の鱒《ます》釣りも渓流魚釣りの項に加えてよかろう。湯元の温泉に一夜を寛《くつろ》ぎ、翌|黎明《れいめい》爽昧《そうまい》の湯の湖を右に見て、戦場ヶ原の坂の上に出て、中禅寺湖の方を展望すれば、景観は壮大である。
茫漠《ぼうばく》として広い青茅《あおち》の原に突っ立った栂《つが》の老木から老木へ、白い霧が移り渡って、前白根の方へ消えいく。やがて昇る朝陽《あさひ》に、朱に染めた頭を集めて男体と女体が、この浩遠《こうえん》な眺めを覗きながら、自然の悠久を無言に語り合っている。草薙山の方に近い密林の中に、早春の雄鹿が嬉々《きき》と鳴く。
湯滝の滝壺は、まだ夜が明けきれない。絶壁と緑樹が朝陽を遮《さえぎ》って残りの闇《やみ》が、地面を淡墨に漂う。だが、滝の岩頭には朝がきた。瀑《ばく》は真っ白な飛沫をこまやかにちらして、大空を落下してくる。澄白と薄明の対照だ。
滝壺の瀬尻のせせらぎに、ガバと波紋を描いたものがある。それは、虹鱒《にじます》であろう。かげろう[#「かげろう」に傍点]の羽虫を餌として、鈎《はり》を瀬脇に投げ込めば、瞬間にグッとくる。確《しか》と餌を食い込んだのだ。竿も折れよとばかりの強引である。ようやくにして水面へ抜きあげ、手網にとって見た虹鱒、銀青色の横腹に紅殻《べにがら》を刷いたような彩《いろどり》、山の魚は美しい。
湯の湖へは姫鱒《ひめます》、湯川へは川鱒《かわます》と虹鱒《にじます》を、帝室林野局で年々数多く放流している。冷徹《れいてつ》な峡間は、湯滝の下に苔生《こけむ》した天然林を抜け出して、戦場ヶ原を幾《いく》曲がり、龍頭《りゅうず》の滝を落ちて中禅寺湖へ注いでいるが、ここは渓流魚釣りの練習場として、まことに好適の流れである。
五
上越国境は、渓流魚の巣であるかも知れない。清水トンネルの下を流れる湯桧曾《ゆびそ》川、谷川岳から出る谷川、万太郎川から越後へ走る魚野川。何《いず》れも岩魚の姿が濃い。
尾瀬ヶ原へは、春の訪れが遅い。尾瀬沼と尾瀬ヶ原を結ぶ沼尻川、燧《ひうち》岳の西を流れる只見川の岩魚は、この頃ようやく冬の眠りから覚めたくらいであろう。片品川の本流と、根羽川には山女魚と岩魚混じりで大ものがいる。鳩待峠の方から、冷たい水を集めてくる笠科川の岩魚は、凄《すご》いほど勇敢に餌に向かってくるのである。
菅沼と丸沼の水を集めて、金精峠から西に向かい片品川へ落ちこむ大尻川には、今年山女魚と岩魚が多かった。片品川と、大尻川の合する鎌田の村から下流は二尺に近い巨大な鱒が棲んでいて、時どき竿を引き折って釣り人をあっと驚かす。
この付近、南の空に大赤城の聳立《しょうりつ》するあり、東には奥白根、西には武尊《ほたか》、北に燧《ひうち》岳を控えて雲の行きかいに、うたた山旅の情を惹《ひ》くもの
前へ
次へ
全6ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐藤 垢石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング