水垢を凝視す
佐藤垢石

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【テキスト中に現れる記号について】

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     一

 鮎が水垢をなめて育つのは誰でも知っている。人間に米や麦が必要であるのと同じようなものだ。
 しかし、水垢のないところでも、鮎は育つ。田圃の用水にも、溜池にも棲んで大きくなる。甚しいのになると、相州小田原在山王川のような溝川にさえ、盛んに鮎が溯上して来て育っている。だが、水垢のない川に育った鮎には香気がない。そして、肉がやわらかでおいしくないのである。鮎という形を備えているのみで、食味としては劣等品である。
 二寸、三寸の小さい頃は主として動物質の餌を食べているが、溯上の途中に立派な水垢を発見すれば、それに食い馴染む。興津川や酒匂川、安倍川のように瀬が直ちに海へ注ぐ川は、川口にまで転石が磊々としている。それには必ず水垢がついている。三月中旬から河へ向って、海から来た鮎は直ぐその水垢を発見してなめはじめるのである。だから三四月頃の小さい鮎の腹を解剖して見ると、動物質の餌の外に、必ず水垢が胃袋や、腸の中に入っているのを発見する。
 大きな川の鮎は、それとは異う。利根川、荒川、那珂川のように河口から上流数里乃至二三十里の間に潮の影響のある川は、川底が小砂であるから水垢がつかない。若鮎は、水垢を求め得られないので、川虫や藻蝦のような動物質の餌ばかりを食いながら上流へ、上流へと溯って行く。砂底を通過しつつある鮎を解剖しても胃袋に水垢を発見することは困難だ。
 若鮎であっても水垢を食べているのと、いないのとでは味も異う。相模川にしたところが、厚木から下流の砂底や小石底の場所を通過しているのを、漁って食べて見て、久保沢あたりから上流へ来た鮎に比較すれば、その味が劣り香気の低いのを感ずる。興津川の鮎は、海に接した川口附近で漁れた鮎でも、まことにおいしい。それは、早くから水垢をなめているからである。奥利根川などは、六月へ入ってからも、下流から僅かに二三寸の小さな鮎が溯って来る。形は小さいが味も香気も立派である。やはり立派な水垢を充分食っているからである。
 水垢は鮎の生命だ。

     二

 友釣でも、ドブ釣でも技術の真髄を究めようとするには、どうしても鮎と水垢との関係を詳かにして置く必要がある。
 ドブ釣も鮎の食欲につけ込んだものだ。友釣も結局は、食料問題に絡らませて鈎という罠を仕掛けたものだ。ゴロ引や、引っ掛けは別として鮎釣の正道を行くものは、食料問題を離れてない。殊に友釣に於ては、水垢の問題が大切である。ドブ釣でも水垢の研究は、ゆるがせにできない。鮎の最も好きな水垢が豊富に石についているにも拘わらず、毛鈎を下げればその鈎へ食いついて来る。これ等のことも、鮎自身でなければ判らぬ領分だ。といってて棄て置いちゃ、上手な釣人にはなれぬ。
 餌のことに疑問を持てば究りがない。その究りないところに深い興味がある。
 若鮎は原則として、岸に近いところを溯上するものである。沖上りをやることは甚だ稀である。岸といっても河原寄りを溯る。なるべく崖寄りを避けたがる。だから、鮎の上った道筋を見ると、稲妻形即ち千鳥形をしているのが普通である。そして、その通路の水際の石に水垢がついていれば、それをなめながら上って行く。汀の石に、小さな若鮎の歯跡がついているのがそれだ。
 友釣は、鮎の歯跡を見て釣れという言葉がある。だが、いつなめた歯跡であるかということが分らないでは、釣りにならない。鮎が幾十里という道程を、溯上しながら水垢をなめた跡を『上りなめ』又は『はたなめ』といっている。これは、汀の石に小さな笹の葉のようななめ跡が、縦横に錯綜しているから直ぐ分る。いかにも通りすがりに、急がしそうになめた歯跡である。
 しかもこれは、鮎が好んで岸近いところを溯上する習性を物語るもので、『はたなめ』の呼称が生れた所以である。『はたなめ』を『居付なめ』と間違ったら鮎は釣れない。
 この川に鮎がいるか、いないかを確かめるにはなめ跡を見るに限る。ところが汀に近いところに、なめ跡があるからこれはたしかに鮎がいると思い込んで、釣ったところで掛るものではない。鮎は、そのなめ跡の付近にはいない。遠く上流へ溯上している。水垢を見ることに研究のつまない人は、『はたなめ』を『居付なめ』と誤認するものであるから、そこはよく注意せねばならないことだ。そして、溯上の道中にある鮎は、たとえ水垢についていても、居付鮎のように活発には争闘をしないものである。忙しく次から次へと溯上してしまう。
 そこで『はたなめ』の多い年は、鮎の当り年だ、ということができる。鮎の大群が汀を溯上する時は、必ず岸に近い石に口をつけて行く。『はたなめ』
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