春宵因縁談
佐藤垢石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)強《し》いて
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)印|絆纒《ばんてん》を
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(例)[#ここから2字下げ]
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はなしのはじめは三木武吉と頼母木桂吉の心臓の出来あんばいから語りだすことにしよう。
このほど、頼母木東京市長が急逝した。私としては、この人の死をきいて別段深く感慨にうたれたというわけではないが、ただ頼母木が持っていた心臓の強弱については、二、三の思い出があるのである。頼母木の心臓は、強《し》いて形容するよりも、しぶとい心臓と言った方が当たっているかも知れない。
彼は備後国府中の生まれで、少年のころ東京へでてきてから当時報知新聞の編集局長であった熊田葦城の書生となった。その熊田老がこの二月中旬に、鎌倉材木座の寓居で他界すると、僅かに一週間たつかたたぬかのうち、頼母木もそのあとを追ったのは、前世の約束であったのであろうか、不思議な縁である。
いまごろ、この二幽人は三途の川の土手あたりで久濶を叙しながら、互いに微苦笑を交していることであろう。
私が二幽人の微苦笑の面を想像したには意味があるのである。頼母木は書生であったから朝な夕な、葦城邸の掃き拭きから水汲み、使い走り身の労苦を惜しまなかった。両の手の甲にひびが裂《き》れていたことであろう。
それから用事が済むと子供の相手をさせられた。葦城の次男で、いま満州の新京へ行っている敏夫が、まだ三、四歳の坊やのころである。この坊やは毎日、書生の頼母木をつかまえては、馬になれ馬になれとせがんだ。
頼母木は、坊やにせがまれるままに畳の上へ四ん這いになった。そして、手拭の真ん中を口にくわえると背中の坊やは、その両端を手綱にとって、はいはいと声をかける。かくして、頼母木は座敷中を這いまわったのである。
ある朝、坊やは頼母木の背中の上でおしっこをやってしまった。古い小倉の袴の腰板の縁をとおして袷《あわせ》へ泌み込み、背の肌に生温かく感じた。と、同時に無常観が頼母木の頭を掠《かす》めた。次の瞬間には、清徹な神気が激しく反発していた。
葦城邸を頼母木が飛び出したのは、その日の夕方であった。このころから、頼母木の心臓は成長をはじめたのであった。
ある一説には、葦城夫人が頼母木少年の逞《たくま》しい気魄に親しめないで、些細な落ち度を柄にとりお払い箱を喰わしたのであると伝える人もいるが、何れにしても頼母木は快い顔して葦城邸を飛び出したのではないのは事実らしい。後年このことを評して、葦城が頼母木の成人するまで面倒をみてやれなかったのは、遺憾であったと言った人があるけれど、この是非はとにかくとして頼母木を発奮させたのは葦城邸であるのは否定できまいと思う。
そんなわけで、それ以来熊田邸と頼母木とは全く交渉なくなった。そのことがあってから幾十年、こんど久し振りで三途の川の対面である。互いの微苦笑が、頬の神経に細かい顫動《せんどう》を与えたことであろう。
さて、星うつり物かわり昭和十三年の暮れ、野間清治のあとを継いで頼母木桂吉は、報知新聞の社長となってきた。新社長は、大晦日《おおみそか》に近いある晩、古い報知新聞の関係者数十名を会席に招待して、就任の挨拶をした。私も古い関係者の一人として招かれて行って頼母木の挨拶の言葉をきいたのだが、新社長が言うに、自分はいままで自分の生命として政治に、自分の力量のあるだけを尽くしてきた。齢すでに七十を越して、このうえ望むべき何もない心底であった。ところが図らずもこのたびある人から、報知新聞社長就任の慫慂《しょうよう》を受けたのである。つらつら報知新聞の現在の社業をみると、全く昔日の俤がない。自分も諸君と同じに、報知新聞の古い関係者である。そとにあっても、社業回復を望む念は一日もやまなかった。されば自分は、直ちに社長就任を快諾した。即ちこれは七十余歳の老骨に、死所を与えられたものである。死華《しにばな》であろう。これからは、この痩躯に鞭うって報知社再興のためには、倒るとも努力を惜しまないつもりだ。幸いにして諸君も社外にあり、主家再興の気持ちをもってこの老人を助けて貰いたい。と、いう意味の希望にみちた演説をしたのである。
これを聞いて、来会者は悉く感激した。頽《すた》れゆく旧主家に、救いの神が現われたような気持ちがしたのであった。
それから、翌春になって暮れに招かれた連中が相集まり頼母木新社長を招待し、感謝慰労の会を開いた。その席上でも、頼母木は自分は報知新聞社と共に討死するつもりである。と、壮心燃ゆるような演説をしたのであった。人々は、杯をあげて昂奮した。報知新聞社黄金時代の再来を夢みて、席上の談笑に暖かい春風が訪れたのである。その夜、私は家へ帰ってから、
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春の川 曙うつし 流れけり
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こんな俳句みたいなものを作って、ひとりで喜んだ。
笑って貰っては困る。いまもなお、報知新聞社は丸の内の一角に、毅然として栄華を示しているけれど、往年全国の読書界を風靡《ふうび》した時代に比べれば、いささか下り坂だけは争えない。社の古い関係者が、この姿を見て誰か嘆かぬものがあろうか。そこへ、社の古い有力な関係者が現われてきて、自分の光栄ある死華のために主家の再興に努力専念するというのであるから、報知新聞黄金時代の再来を夢みるのが当然である。
古い関係者は、それぞれ社会に立って活動はしているが、旧い主家の左前は寂しい。故郷の村に住んでいた年月よりも、有楽町の土を踏んでいた歳月の方が比較にもならないほど長い連中ばかりであるから、なんで主家の凋落を喜ぶ者があろう。頼母木の悲壮な決意にこぞって随喜の涙を流した。
そこで私は、心豊かな気持ちとなり四月の上旬、将棋の名人木村義雄と二人で、朝鮮旅行に赴いて、二十日すぎに帰京してみると、飛んでもない話をきかされて、狐につままれたのではないかと思った。それは、頼母木桂吉が報知新聞社長をやめて、東京市長に就任したということである。腹が立った。いまいましかった。暮れと春と、二度も眼頭を熱くして感激した己の愚かさを顧みた。
『馬鹿々々しい』
と、私が呟くと、その話をしてくれた友人が、
『あれは、政党屋なんだよ。自分の言葉に責任は持たんのさ……』
と、私を慰め顔にいう。
『それにしてもだ――』
私の憤慨はなかなかとまらなかった。すると、木村義雄が、
『東京市と報知新聞社とどちらが国家的に重い位置にあるかは別問題として、自分は報知新聞社と生命を共にすると言ったのであるから、僕であったならどんな話を持ってこられようと自分の言葉のために、自分の意地のために報知新聞社を捨てないだろうと思うな』
こう言って、憮然とするのであった。
頼母木は、とうとう私ら若い者から批評されてしまった。頼母木の心臓はしぶとい。
そのあとへ、社長となったのがいまの三木武吉である。
それほど、しぶとい[#「しぶとい」に傍点]頼母木桂吉の心臓であったけれど、三木武吉の圧倒的の心臓には敵しかねた歴史がある。それは、こんな話だ。
大正六、七年ごろであったと思う。八月の炎暑の午後、相州小田原の傍らを流れる酒匂川の川尻で、私が黒鯛を釣っていると、そこへ五十歳前後の釣り師がきて、私と並んで釣りはじめた。どういうわけか、その日はさっぱり釣れない。二人は根気がつきて、みぎわに近い砂原へ腰をおろした。そこで、私と釣り師との間に世間話がはじまった。
『こんど、牛込から素晴らしい候補者がでますよ』
という話になった。九月には、衆議院議員の選挙があるのであるから、話題は自然にその方へ移っていったものとみえる。
『どんな人物です』
『さあ、どんな人物と言っても、まだ青年なんですがね、弁護士で、まだ三十歳をでたばかりです』
『はあ、では新候補ですね。どこか特別に偉いところがあるのですか』
『無名の弁護士ですが、ひどく義侠がありましてね、貧乏人をみると、誰にでもただで弁護してくれるんです。私は、小石川の魚屋の親爺ですが、私の仲間にも厄介になった人があるんで、同業者がみんな感謝しているような訳です』
『なんという人ですか』
『三木武吉といいますよ。しかしね、私は先だってからここの松寿園に滞在して酒匂の川尻の黒鯛を狙っているのですけれど、三木の選挙がどうなるかということを考えると、頭がこんがらがって、魚の当たりなど少しも分かりませんやね。きょう釣れないのもそのためでしょう』
『えらいご執心ですな』
夕方の上げ潮がきたので、また熱心に釣りはじめたが、その日の収穫は、甚だ僅かであった。
帰京してから三木武吉という名前を思いだして新聞をみると、じゃんじゃんと戦っている。相手は、やはり同じ憲政会の頼母木桂吉だ。無名の新候補が飛びだしたのでは、敵党政友会の地盤へ斬り込むのは困難であるから、専ら同志の票を食う作戦らしい。
この選挙は、大隈内閣の運命を賭するものであったから、火花が巷に散った。
三木はそのとき僅かに三十二歳。政党人としてはほんの駈けだしである。立候補しても選挙運動費はたった三千円しか用意できなかった。
選挙期日の二日前、つまり明後日は投票日であるときになって、総理大臣大隈重信が、自党の候補者頼母木桂吉のために応援演説にでるという情報を、三木がききこんだ。しかも演説会場は京橋木挽町の歌舞伎座であるという話である。歌舞伎座を演説会場に使った政治家は、それまで例がない。そのはずだ。一夜に五百円という大枚の使用料をとられるのであるから、金持ち候補でなければ手が出せないのである。いかにも派手好みの頼母木が企てそうなことだ。
大隈伯が、応援演説にでれば当選はきまっている。頼母木が当選するのは我が党人であるからそれはよろしいとしても、頼母木が無暗に票を浚っていけば自分が危なくなる恐れがある。してみると、伯の応援演説は極力阻止せねばならない。三木は狼狽したり、激昂したりした。
伯は、公平であるから誰に味方しようというわけではない。自党の候補者が一人でも多く当選すれば満足なのである。ところが、伯爵邸は二派に分かれていた。奥方派と、玄関派に分かれて対立したのだ。奥方派は選挙がはじまると直ぐ伯爵夫人が総指揮となって頼母木桂吉を応援し、玄関派は伯爵の執事が大将となって三木武吉を声援したのである。
しかし、何としても奥方派の方には分がある。当時は候補者の戸別訪問が許されていたのであるから、候補者のお供をして歩く職人や若い者に、伯爵家から名入りの印|絆纒《ばんてん》をだして着せ、その上に伯爵の候補者推薦名刺には、大隈という認印まで捺《お》してある。
だが、玄関派は無産党であるから印絆纒などだす訳にはゆかない。名刺に、認印を捺すわけにもゆかないのだ。こんなわけで、三木はなんとしても分が悪い。かれこれするうちに、頼母木と三木を対比して、正閏《せいじゅん》論まで起こるありさまとなった。三木の運動困難と苦心は測り知るべきであろう。
ところへ持ってきて、投票日二日前の夜に総理大臣がでて、頼母木の応援演説をするという報に接したのだ。もう、黙ってはいられない。三木は、あの四角の顔と大きな口で伯爵邸へ飛び込んだ。
『総理、閣下は私には応援演説をしてくれぬお考えですか』
と、三木はどしんと大隈にぶつかった。
『いや、わしは自党の候補なら誰でもかまわん。わしは、公平じゃ』
『そうでしょう。それで私は安心しました。必ず私にも応援演説してくれますな』
『そうじゃ、じゃから、明晩にでも演説会場の用意をしたらええじゃろう』
と、伯爵は答えたのである。ところが、三木は困った。懐へ手を当ててみると、もう選挙費は殆ど使いはたして無一文にも等しい。頼母木に対抗して、なんで五百円もの使用料を要する演説会場など借りられようか。三木は窮した。だが、窮したが通じた。
『ですが、閣下それは無理です。選挙が明後日に迫
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