小伜の釣り
佐藤垢石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)陽《ひ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)うぐい[#「うぐい」に傍点]
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こうして私は、長い年月東西の国々を釣り歩いた。そして、五、六年前に、何十年ぶりかで故郷に帰り住むようになり、再び利根川の水に親しんだ。
もう、長男が十二、三歳になっていた。私が、亡き父に伴われては河原の陽《ひ》に照らされていた年頃である。子供が次第に大きく育っていくのを見るのは、何事にもかえがたい。その子が、不出来であろうが、まずい顔をしていようが、まず息災《そくさい》にすくすくと伸びていくさまを見るほど、心安さはないのである。子供を育てるのは畢生《ひっせい》の大事業だ。そして、それに天恵の快興が伴う。
わが父も幼き私を、楢林の若葉のかげに、末たのもしく見たのかも知れない。
私の長男も、私と同じように釣りが好きのようである。かつて、この子が五、六歳の頃、私は奥利根川沼田地先の鷺石橋の下流へ、山女魚《やまめ》釣りに連れて行ったことがあるが、それから一度も川へ伴ったことがなかった。けれど、尋常小学校五、六年頃になると、母親の眼を隠れては近くの池や川へ行くようになった。裏の薮から、篠笹《しのざさ》を切ってきて、それに母の裁縫道具の中から縫糸を持ち出して道糸をこしらえては、鈎を結んで出て行った。夕方帰ってくると、広い台所の隅へ生きている鮒や鯰を入れた兵庫樽を置いて、時々ながめては楽しんでいる。
私は『自分の子供の時と同じようだ』と、考えてほんとうに微笑《ほほえ》ましかった。
家内は『勉強をそっちのけにして置いて、鮒ばかり釣っていちゃ困る』と言って、私に叱るように言うのであった。
近所にも、子供の仲間がいる。その子供の親達が川辺で自然に親しんでいるのを見て、口やかましく叱るのを見た。けれど私は家内に、
『人間は、未開な遠い祖先の時代から釣りや猟で生活してきたのだ。それが、潜在意識となって今の人間にも残っている。子供が、魚を釣ったり昆虫を捕らえたりして喜ぶのは、その潜在意識を偽らず飾らずかたどるのであるから、はたでたしなめるのは、子供の天性をまげるようなものだ』
と、いったふうな意味のことを語って、小伜のただ一つの楽しみを妨げさせなかったのである。
少し大きくなると、
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