小みどりの母に、奉行所から、娘供出の指令が到着した。仙公狸は、すぐにこれを伝え聞いて、仰天したのである。
 自分が、通力を発揮して美人に化け、小みどりの身代わりとなり奉行所へいけにえとなって罷り出ても構わぬが、化けの皮を剥がれたときのことも考えて置かねばならない。いかに狸界の重鎮である自分と雖も、相手が武士では始末にならぬ。
 さりとて、みすみす小みどりを奉行所へ奪われてしまえば、恋の破滅だ。時にとっての勘案はなきものかと、佐々木彦三郎は長大息して、尻っ尾で畳を打った。
 母の歎きは、それ以上だ。次第によれば、老いた母が娘の身代わりにもなりたいが、この皺くちゃでは、問題にならぬ。娘と手を取り合って泣き暮らしたのである。
 人の歎きに用捨はせぬ。下僚は者共に命じ、小みどりを駕篭《かご》に押し込めて、奉行所へ連れて行ってしまった。
 逃走の虞《おそ》れがあるというので、雀右衛門は小みどりを離れの一間に軟禁した。そして、瀧川一益のご機嫌の折りを窺い、これを献上して首を助かることはもちろん、あべこべに出世を夢みて、下僚と共に祝盃をあげたのである。
 だが、折り悪《あし》くして一益は、平素の余りの色好みから、虚脱の風となり、このごろは臣下の多くに面接せぬという。
 しからば、ご病気ご全快を待って、吉左右《きっそう》を見るより他に法はない。それまでに、粗忽《そこつ》があって美女を損じてはならぬというので、離れの一間は、警戒がよほど厳重になってきた。
 仙公は、恋人を奪われてから、もう幾日。堪らなくなってきた。憔悴して、見るも気の毒な男振りとなったのである。
 狸であるとはいえ、恋には純情だ。折りあらば小みどりを盗み出そうと企てた。
 毎晩、お家に伝わる神通力を現《うつつ》して、奉行所の離れの間の庭先へ忍び込み、小みどりの様子を窺うのであったけれど、武士共の巡邏《じゅんら》きびしく、たやすくは彼の一室へ寄りつけそうもない。石灯篭のかげに身をひそめ、頭を長くし、丸く隈取った眼をきょろきょろさせて、懸命に心を焦《こが》している。
 怪漢、推参!
 一人の武士が高く叫ぶと押っ取り刀で五、六人の逞しい武士が馳せつけ、佐々木彦三郎を取り巻き、高手小手に縛り上げてしまった。
 近ごろ、なんとなくこの屋敷にうろんの気配がすると思ったが、こ奴の仕業だ。
 それがしも、夜になると妙なにおいが邸内に漂うと思っていたがこれだな、あの小みどり情人の若者は――。
 それそれ――今晩はわれらの手柄、これから一盃いけるちうものだ。
 もう少し、きびしくいましめる、逃がしてはならん。
 奉行所の白州へ引き立てたのである。吉野雀右衛門は、一切の経過を聞いてから、下僚と共に白州の正面へ着座して、声をあららかに訊問をはじめたが、なんと責めても怪漢は、一言も口を開かない。
 拷問にかけえ。
 これは、この頃の刑事部屋の風景と、ひどく彷彿としている。
 怪漢の膝へ、重い大谷石を乗せて置いて、係りの廷丁《ていてい》が、太い撲り棒で、背中を滅多打ちに撲りつけた。ところが最後の一打が撲りどころが、いけなかったらしい。
 うっ!
 と、一唸り唸ると、脆くも怪漢は、身体がぐにゃりとなって、横倒れに倒れてしまった。同時に、呼吸が絶えた様子だ。
 こら廷丁、少し打棒がはげし過ぎたぞ。
 はい、ですが水をかければ、すぐ息を吹き返します。
 手桶から、柄杓《ひしゃく》で頭へ水をかけた途端、十重、二十重に縛られたままの怪青年は、子牛ほども大きい魁然《かいぜん》たる大狸に化けてしまった。実に、思いがけない出来ごとだ。
 うへっ!
 武士共は、顔色変えてうしろへ飛び退いた。雀右衛門の手は刀の柄《つか》を握った。
 奇っ怪なり変化。
 雀右衛門はこわごわ、白州へ下りてきて、古狸を蹴ってみたが、やはり狸である。藷俵《いもだわら》ほどもある大睾丸が、股の間からだらりと伸びたれていた。
 人間が、狸を情人に持つとは、昔からきいた例しがない。ことによると、あの小みどりは雌狸かも知れないぞ。逃がすな、それっ!
 吉野の下知《げじ》に、武士共は離れ座敷へ駆けつけて、泣き叫ぶ小みどりを、厳しく括り上げたのである。
 妖怪変化は、そのまま葬っては、幽冥界から再び帰ってくる虞《おそ》れがある。まず皮を剥いで取って置き、骸《むくろ》は油をかけて焼いてしまえ、これ者共。
 仙公狸の骸を白州から庭へ引き出し、上から粗朶《そだ》を積み、油をかけて火を放った。自ら承知の上とはいいながら、人間を恋したばかりに、あえなき狸の最後であった。
 ところで、山と積んだ粗朶も焼け落ち、油も燃えてしまってから、灰掻きわけてみると、狸の肉も骨も共に灰となっている。だが灰の中に、なにかふにゃふにゃしたものが残っている。
 奇っ怪に思って、一人の武士が
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