せまいな――そこでどうだ。こんなせまいところで辛抱する気なら、こん夜ここへ泊まっていったらどうだい』
 まことに、予期に反した親切な言葉である。三人は口を揃えて、
『はい』
 と何の猶予も、考慮の風もなく、声を返すように答えた。
『そうだろう。急ぐ旅でもなさそうだ』
 そのときほど嬉しかったことを、かつて経験しない。恐らくこれから先もあるまいと思った。
 三人は、足袋の埃を叩いて座敷へ上がった。校長先生は、小型の南部の鉄瓶から自分で茶をいれてくれた。先生は、茶をのみながら俳論をはじめた。ところが静かに聞いてみると、校長先生は私らよりも、よほど造詣が深かった。私らは感服して、首を前へ傾げた。
 が、私はそれから二、三十分たつと自分の胃袋が、ぐつぐつと鳴るのを聞いた。胃袋が鳴るのに気がつくと、頭がじんじんするほど空腹を感じてきた。まことに相済まぬことだが、そうなると先生の声が耳へうつろに響く。

     五

 ――何とか、飯のことを言い出してくれそうなものだな――
 と、そればかり考えた。
 ――だが、俳諧の好きな人は、わりあいのんき者が多いから、そんなところへ気がつかないかも知れない――
 などとも考えてみた。それは、心細い思いまわしだ。結局先生がそこへ気がつかなければ、このまま寝かして貰うよりほかに順序はない訳である。
 しかし、そう簡単に見限るものでもあるまい。何とか苦心してみるのも、手段であると考え直した。
 そこで私は、きょうの昼飯は、さつま芋の蒸したのを五銭買って三人で分けて食べただけだ、というようなことを遠まわしに話した。俳論に夢中になっていた校長先生は漸くそれをさとったのであろう。
『つい、忘れていたが諸君、晩めしはどうした』
 と言った。
 先生は無頓着だとこちらで勝手にきめて気を落としてしまわないのが幸運であった。つまり、私の遠まわしが、効を奏したのである。
 ところがだ、何たることだろう。貧乏でありながら、日ごろ見え坊ではにかみ屋の玉汗は、眼と眼で私らに何の打ち合わせもしないで、
『いえもう、さきほど途中で済ませました。ご心配くださいませんで――』
 と、やってのけた。私は、ぎっくりして横眼で、きつく玉汗を睨めた。けれど、玉汗にはそれが何のための私の表情であるか分からない。私の心胆を砕いた遠まわしも水泡に帰した。もう取り返しがつかないのだ。
『そうかね、それじゃあ、まあ何もかまわんことにするから、眠くなるまでゆっくり話そう』
 情けない言葉だ。
 そこでまた、校長先生の口から碧梧桐の新傾向論がはじまった。それに続いて、元禄のころこの碓氷峠の裾に、芭蕉の弟子となった白雄という俳人がいた、という昔話になったのだが、口から綴り出すその糸のような言葉の、長いこと。
 私は、空腹が睡気に変わってきた。先生の話を感服して聞く誠実さがなくなった。玉汗一人が眼鏡を拭きふき、まことしやかであるだけだ。
 そこへ、母屋の方のお婆さんが、唐黍《とうきび》の焼餅を、大きな盆に山ほど積んで、お茶うけに持ってきた。この座敷の寒い空気に触れて、白い湯気がおいしそうに焼餅から立ち揺れる。
 眼が、急に輝いた。三人は、競うように大きな焼餅を貪り食った。――もう、晩飯はすんできた――という三人を、校長先生は呆れ顔で見ていた。
 翌朝、一升五合炊もはいろうと思う大きな米櫃《こめびつ》へ、白い飯を山盛りいれて出してくれた。そのときの、下仁田葱の熱い味噌汁の味がいまでも忘れられない。給仕に出たお婆さんが、味噌汁を替えに行った留守、三人はひそひそと、
『きょうの昼めしは、どうなることか当てにはならない。そのつもりで、充分腹に支度をしておけ』
 と、囁き合った。米櫃はからからになった。私らは、厚く礼を述べた。そして、辞して去るとき先生は、
『これは、ほんの短冊の紙代だけだ』
 こう言って、紙のおひねりを出してくれた。
 私達は、また平伏したのである。
 中仙道へ出て四、五町歩いてから、その紙包みをあけてみると、二十銭はいっていた。
 あのとき、校長先生は四十歳を過ぎていたように見えたが、いまでもお達者に暮らしているであろうか。

     六

 碓氷の峠路から眺める重なり合った峯と谷はまだ寒山落木の姿であった。だが、東に向いた陽当たりの雪のない山肌には、波のようにやわらかい襞《ひだ》が走っていて、落葉の間にも何となく潤《うるお》いがある。やはり、春たつ順気が地の底に、眼ざめているのであろう。
 路は、この頃のようになだらかに改修されていなかったから、なかなか険しかった。足ごしらえの悪い腿が痛む。けれど、けさふんだんに食べた飯が腹にあるから、いずれも元気だ。
 午《ひる》が少しまわったころ、峠の頂へ出た。ここには、上州と信州の国境を示す石の標柱が、嶺から平野へわたる風のなかに立っていた。その標柱の礎石の前の小さな石塊を背に分けて、東側に降った雨は遠く流れて太平洋へ、西側へ降った雨の粒は日本海へ、おのおのの行方を語るのであろう。路傍の赤土の面を掘った細い糸ほどの溝の跡が二本。一本は利根川を指し、一本は信濃川を慕い、思い思いの方を向いて互いに運命の坂を下っている。
 私らはそこから行手をみてびっくりした。顧《かえり》みれば、下野の男体山から赤城、榛名、妙義、荒船、秩父山かけて大きく包まれている関東平野は、もう浅春の薄い霞の帷《とばり》をおろして、遠く房州の方へ煙っているというのに、信濃の国の方は青銀色に冴えた一面の雪野原であった。
 山の中腹の、浅い雪からは、枯芒が穂だけ出している。吹きだまりの深い雪には落葉松が腰まで埋めている。大浅間の頂は、真っ黒な雪雲に掩われて窺い知れないが、南佐久の遙かな空には真っ白な蓼科山が鋭い線を描いて、高く天界を截《き》っていた。
 凄寒を催す眺めだ。この雲行ならば、また雪が飛んでくるかも知れない。風が、痛い。長野まではまだ道のりの半分もきていないのだけれど、何の防寒の用意もなく懐も冷たい私たちは、これから先、この積雪のなかを、踏み分け踏み分け行かねばならないのか。それを思うと、脚が立ちすくむ。
 こうして、寒雪に恐れていつまでもここに佇むわけにはゆかぬ。勇気をつけて、軽井沢の方へ坂を下った。軽井沢の宿へ入ると、人の踏みつけた雪は凍って、油断をすれば低く摺り減った日和下駄の歯が、危うく滑りそうになる。
 いまの軽井沢は、文化風の建物が櫛比《しっぴ》して賑やかな都会となっているが、そのころはまだ北佐久郡東長倉村の一集落で、茅葺屋根の低い家並みが続いていて、ペンキ塗りの外人の避暑小屋は落葉松の林のなかに、ばらばらと数えるほどしか見えなかった。殊に冬は死んだように閑寂とした宿であった。
 きょうも長倉村でさつま芋を五銭買って分けて食べた。ところが信州は物が高いと見える。
 上州の板鼻で買ったときよりも、同じ五銭でありながら、きょうの方が量が少ない。そんな細かいことに気づいて、三人は笑った。
 浅間|颪《おろし》が、横なぐりに雪の野を吹き荒れてくる。だが尻をからげて路を急いでいると、峠の上で恐ろしがったほど寒さを感じない。かえって、ほんのりと額に汗がにじむくらいである。
 沓掛の宿を過ぎた頃は、夕暮れに近い。

     七

 追分の宿へ着いたら、夜になった。
 馬子唄に唄う、
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浅間さんなぜ焼きやさんす
      裾に十七持ちながら
[#ここで字下げ終わり]
 の唄で知られる宿場遊廓の、古い大きなもう滅びて誰も住んでいない建物の前を過ぎて行くと宿のはずれであろうと思うところで、村役場の看板を発見した。門から覗いてみれば、小使室らしい爐《ろ》のなかで、榾火《ほたび》があかあかと照っている。しめた、と思った。
 そこでまた、銀平の決心を促すことになったのである。けれど、一番若い銀平ばかり苛《いじ》めるのは、いけないということになった。そして、三人一緒に小使室の土間へ入って行って、私が小使さんに訳を話して、
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春の川 鰔《うぐい》むらがり 遡りけり
[#ここで字下げ終わり]
 と、書いてある短冊を出した。小使さんは、それを受け取りながら、ひとりごとのように、
『こんなのが、この頃よくくるなあ――』
 と、呟いて事務室の方へ持って行った。事務室は、暗いが誰かいるとみえる。
 しばらくすると、事務室の窓の硝子戸が開いて声がした。
『君たち、こっちへきんさい』
 と、呼ぶのである。私たちは、開いた窓の下の庭に立った。窓を見上げると、窓の暗《やみ》から手が出て、
『これを持って行き給え』
 と、言う。
『どうも、ありがとうございます』
 玉汗が右の手を差しのべると、暗から出た掌が開いて、光るものが玉汗の掌へ落ちた。
『どうもありがとうございます』
 と、玉汗は重ねて言った。しかし、事務室も暗い。また、そとも暗い。事務室の暗《やみ》の主は、どんな人であるか分からないのである。声の色で判断すると、若い人のようでもあり、黒い手の色から考えると、年配者でもあるらしい。
 銀平も私も、暗のなかで黙って頭を下げた。窓の人は、そのまま黙って暗のなかへ引っ込んで行ってしまったのである。小使室の前へ立ち戻って、遠く榾《ほた》あかりで透《す》かしてみると、玉汗の手にあるものは、五十銭銀貨であった。
 ――奇特なことである――
 私は感激して、心にこう思ったのであるから、銀平も玉汗も同じ思いであったろう。
 五十銭あれば安心だ。どこか木賃宿でもみつけよう、ということに相談一決した。往還へ出て路ゆく人に尋ねてみると、この宿の西の出はずれに、上州屋といって昔は、つまり汽車という交通機関がこの土地へ通じる前は、大きな立派な宿屋であったけれど、いまでは木賃宿というほどではないが、まあ安直の諸国商人宿風の店があるから、訪ねて行ってみるがいい。話のしようによれば、米も炊いてくれるだろうし、布団も貸してくれるだろう、と親切に教えてくれた。
 宿はずれに、上州屋というのがあった。路ゆく人の言葉通り、大きな店ではあるが半ば腐った古い軒が傾いていた。広い土間へ入って、框《かまち》のそばに切ってある大きな爐に手をかざしていた盲縞の布子《ぬのこ》を着ている五十格好のお神さんに、一夜の宿をお願い申した。
 お神さんは、私らの風体に下から上まで冷やかな視線を放ちながら私たちの口上をきいていたが、しばらく考えた末、手前どもでは旅の芸人を泊めないことにしている。この暮れ以来佐久地方へ、悪い者が入り込んであちこち騒がしているので警察の達しがやかましい。気の毒だがほかの土地へ行って貰いたい。しかし話をきけば哀れでもある。今夜一泊だけはそっと泊めてやろう。
『米を、買うぜにはあるかい』
『ございます』
『そうかい、豪勢だね。一升十七銭――三人だから一升あれば足りるだろう。ぜにをこっちへ出しな、わしが買ってきてやる』
『はい』
『ところで、木賃の方は八銭ずつ、都合二十四銭。みんなで四十一銭でがんす』
 ひどく胸算用の達者なお婆さんである。私たちは、お縋《すが》り申すという態度で、小さくなって框へかけた。玉汗が、先刻貰った五十銭銀貨を、お神さんに渡した。
 そこで、すぐ米を買いに行ってくれると思ったところ、漸く安心したらしいお神さんは、顔の皺を伸ばして、続いて私たちに言うに、見るところお前さんたちは、浪花節だろうね。浪花節はわしも好きならこの村の人たちは誰でもみんな好きだ。ところで、今夜お前さんたちがわしの店で一席やれば、村の人を大勢集めてきてお鳥目《ちょうもく》を貰ってやる。そこで、この五十銭はお前さんたちに返してもいいことになるのだがどうだい奮発して面白いところを一席やってみないかね。五十銭はここへ置くよ。
 これは、飛んでもないことになってきた。だが、私らは浪花節にみえるのかも知れない。三人は、頭の毛が伸びている。殊に私は、羊羹《ようかん》いろの斜子《ななこ》の紋付《もんつき》を着ている上に、去年の霜月の末に、勤め先を出奔して以来という
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