しかし、ひとたび深い雲を催せば、雨がくるのではあるまい。もう雪が降ることであろう。そんな想像をめぐらしているうち、三十年近くも過ぎた昔、私はこの蕭条たる枯野が真っ白に包まれた雪の上を、東から西へ向かって歩いて行ったことが頭へ浮かんできた。
いや、ほんとうはこうして二人から離れ、私ひとり窓のそとの景色に忽焉《こつえん》としているというのは、そのときのわが姿を、なん年振りかで眼に描いて、なつかしみたかったからである。若き日のわが俤が汽車の窓のそとを歩いている。
その若き日の旅に、私は歯がたわしのように摺り減った日和下駄をはいていた。物好きの旅ではない。国々をさまよい歩いた末の、よるべなき我が身の上であったのである。
二
私は明治の末のある年の十一月下旬、勤め先を出奔したことがある。追っ手を恐れて一足飛びに土佐の国へ飛んだ。土佐の国を選んだというのは特に頼る人があった訳ではない。ただ地図の上で見て海を隔てた遠い国であるから、そこまでは追っ手の手も届くまいと考えたからであった。
高知市で口入れ屋を尋ね、蕎麦屋の出前持ちを志願したけれど、戸籍謄本を持たないというので、ことわられた。そこで、土佐の国には諦めをつけ、神戸に渡ったのである。
神戸では本町二丁目裏の大きなちゃぶ台のある近所の口入れ屋の二階に、四、五日ごろごろしていたが、そこでも仕事はみつからなかった。それから大阪の天王寺に旧友を訪ねて、電車賃を借りて京都まで行った。
三条駅へ着いたが、京都にも別段たよる人がない。ひねもす、岡崎公園の石垣の上から疏水の流れを眺めていた。夕方になると、水の面《おもて》に冷たい時雨《しぐれ》が、ばらばらと降った。
伏見の町で古着屋を捜して、トランクを中みぐるみ売った。トランクの中には、死ぬまで手離すまいと大切にしていた母が手織の太織縞の袷《あわせ》も入っていた。そのとき、ふと感傷的になったのを、いまでも記憶している。
その金で、相州小田原までの汽車の切符を買った。そして十二月から翌年の二月まで、小田原の友人の家へ居候していた。小田原の友人は、家なき私に親切であった。
ところが、友人は私にもてなす酒のことで細君と喧嘩した。それが、二度、三度と重なったのである。
『おれの友達の、面倒がみられないようでは困る』
と、友人が細君をたしなめると、
『それも程度問題で
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