酒徒漂泊
佐藤垢石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)沓茫《とうぼう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)浅間|颪《おろし》
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一
昨年の霜月のなかばごろ、私はひさしぶりに碓氷峠を越えて、信濃路の方へ旅したのである。山国の晩秋は、美しかった。
麻生豊、正木不如丘の二氏と共に、いま戸倉温泉の陸軍療養所に、からだの回春を待ちわびている三百人ばかりの傷病兵の慰問を志して、上野駅から朝の準急に乗った。峠のトンネルを抜けて、沓茫《とうぼう》とした軽井沢の高原へ出ると、いままで汽車の窓から見た風物とは、衣物の表と裏のように、はっきりと彩を変えていた。二人は、莨《たばこ》を喫いながら何か賑やかに話しているけれど、私は窓硝子へ吸いつくばかりにして、めぐりゆくそとの景趣に眺めいったのである。
この秋は、陽気が遲れていた。いつもならば十一月のなかばがくると、上信国境の山々は、いくたびかの大霜にうたれ、木々の梢はうらぶれて、枯葉疎々として渓流のみぎわを訪れる、というのであるそうだが、いま見てきた妙義から角落の奇峭を飾る錦繍の色は、燃え立つほどに明るかった。横川宿あたりの桑園の葉も、緑に艶々しい。
さくらもみじは、熊の平の駅へはいって漸く散りそめていた。霧積川の流れは岸に砕けて、さすがに晩秋らしく冷えびえと白い泡を立てていたけれど、崖から這い下がる葛の蔓が、いまもなお青かったところを見れば、淵の山女魚《やまめ》の肌に浮く紫もまだ鮮やかに冴えていることであろう。
ところが、碓氷の分水嶺を一足すぎて、この浅間の麓へ眼をやると、なんと寂しい、すべての草木の凋《しぼ》れた姿であろうか。穂に出た芒は、枯れて西風に靡いている。路ゆく人の襟巻は、首に深い。落葉松はもう枯林となって、遠く野の果てに冬の彩を続けている。
空は蒼《あお》く、真昼の陽《ひ》は輝いている。上州では高い空に白い浮雲をみたのに、信州へはいっては一片の雲もみない。その明るい陽に照らされて、浅間山の中腹から、前掛山の頂かけて茜《あかね》さすのは秋草の霜にうたれた色であるかも知れないと思う。それに連なって裾野の方へ、緑に広く布《し》いてみえるのは、黒松の林ではないであろうか。
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