州屋といって昔は、つまり汽車という交通機関がこの土地へ通じる前は、大きな立派な宿屋であったけれど、いまでは木賃宿というほどではないが、まあ安直の諸国商人宿風の店があるから、訪ねて行ってみるがいい。話のしようによれば、米も炊いてくれるだろうし、布団も貸してくれるだろう、と親切に教えてくれた。
 宿はずれに、上州屋というのがあった。路ゆく人の言葉通り、大きな店ではあるが半ば腐った古い軒が傾いていた。広い土間へ入って、框《かまち》のそばに切ってある大きな爐に手をかざしていた盲縞の布子《ぬのこ》を着ている五十格好のお神さんに、一夜の宿をお願い申した。
 お神さんは、私らの風体に下から上まで冷やかな視線を放ちながら私たちの口上をきいていたが、しばらく考えた末、手前どもでは旅の芸人を泊めないことにしている。この暮れ以来佐久地方へ、悪い者が入り込んであちこち騒がしているので警察の達しがやかましい。気の毒だがほかの土地へ行って貰いたい。しかし話をきけば哀れでもある。今夜一泊だけはそっと泊めてやろう。
『米を、買うぜにはあるかい』
『ございます』
『そうかい、豪勢だね。一升十七銭――三人だから一升あれば足りるだろう。ぜにをこっちへ出しな、わしが買ってきてやる』
『はい』
『ところで、木賃の方は八銭ずつ、都合二十四銭。みんなで四十一銭でがんす』
 ひどく胸算用の達者なお婆さんである。私たちは、お縋《すが》り申すという態度で、小さくなって框へかけた。玉汗が、先刻貰った五十銭銀貨を、お神さんに渡した。
 そこで、すぐ米を買いに行ってくれると思ったところ、漸く安心したらしいお神さんは、顔の皺を伸ばして、続いて私たちに言うに、見るところお前さんたちは、浪花節だろうね。浪花節はわしも好きならこの村の人たちは誰でもみんな好きだ。ところで、今夜お前さんたちがわしの店で一席やれば、村の人を大勢集めてきてお鳥目《ちょうもく》を貰ってやる。そこで、この五十銭はお前さんたちに返してもいいことになるのだがどうだい奮発して面白いところを一席やってみないかね。五十銭はここへ置くよ。
 これは、飛んでもないことになってきた。だが、私らは浪花節にみえるのかも知れない。三人は、頭の毛が伸びている。殊に私は、羊羹《ようかん》いろの斜子《ななこ》の紋付《もんつき》を着ている上に、去年の霜月の末に、勤め先を出奔して以来という
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