、夕暮れに近い。
七
追分の宿へ着いたら、夜になった。
馬子唄に唄う、
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浅間さんなぜ焼きやさんす
裾に十七持ちながら
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の唄で知られる宿場遊廓の、古い大きなもう滅びて誰も住んでいない建物の前を過ぎて行くと宿のはずれであろうと思うところで、村役場の看板を発見した。門から覗いてみれば、小使室らしい爐《ろ》のなかで、榾火《ほたび》があかあかと照っている。しめた、と思った。
そこでまた、銀平の決心を促すことになったのである。けれど、一番若い銀平ばかり苛《いじ》めるのは、いけないということになった。そして、三人一緒に小使室の土間へ入って行って、私が小使さんに訳を話して、
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春の川 鰔《うぐい》むらがり 遡りけり
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と、書いてある短冊を出した。小使さんは、それを受け取りながら、ひとりごとのように、
『こんなのが、この頃よくくるなあ――』
と、呟いて事務室の方へ持って行った。事務室は、暗いが誰かいるとみえる。
しばらくすると、事務室の窓の硝子戸が開いて声がした。
『君たち、こっちへきんさい』
と、呼ぶのである。私たちは、開いた窓の下の庭に立った。窓を見上げると、窓の暗《やみ》から手が出て、
『これを持って行き給え』
と、言う。
『どうも、ありがとうございます』
玉汗が右の手を差しのべると、暗から出た掌が開いて、光るものが玉汗の掌へ落ちた。
『どうもありがとうございます』
と、玉汗は重ねて言った。しかし、事務室も暗い。また、そとも暗い。事務室の暗《やみ》の主は、どんな人であるか分からないのである。声の色で判断すると、若い人のようでもあり、黒い手の色から考えると、年配者でもあるらしい。
銀平も私も、暗のなかで黙って頭を下げた。窓の人は、そのまま黙って暗のなかへ引っ込んで行ってしまったのである。小使室の前へ立ち戻って、遠く榾《ほた》あかりで透《す》かしてみると、玉汗の手にあるものは、五十銭銀貨であった。
――奇特なことである――
私は感激して、心にこう思ったのであるから、銀平も玉汗も同じ思いであったろう。
五十銭あれば安心だ。どこか木賃宿でもみつけよう、ということに相談一決した。往還へ出て路ゆく人に尋ねてみると、この宿の西の出はずれに、上
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