あの広い牧場で淡紅の馬つつじを眺め、帰り路は湯の沢の渓を下山した。塚原卜伝と真庭念流の小天狗と木剣を交えた三夜沢の赤城神社を参拝してから、関東の大侠大前田英五郎の墓のある大胡町へ泊まった。宿屋は、伊勢屋というのであったと記憶している。
台洋灯の下へ、女中が晩の膳を運んできた。その時、何ということなしに、ふと、
――酒を飲んでみようか――
と考えた。日ごろ、父がおいしそうに飲む姿を眺めていると、父は酔眼の眦《めじり》を垂れて私に、
『お前も一杯やってみるか』
などとからかうことがある。ところが、これを母がすかさず聞きつけて、
『とんでもない――酒は子供の頂くものじゃない』
と、父と私をきびしくたしなめたことが幾度かあった。
だから私は、酒が飲みたいなどと一度も思ったことがなかった。けれど、こうしてひとりで旅の宿に夜を迎え、高足膳に対してみると、一室の主人公といったような気持ちがする。
『お前も一杯やってみるか』と言った父の言葉が頭の何処《どこ》かを掠《かす》めた。そこで、ただ何となく『飲んでみるか』と軽く考えたのである。
『女中さん、酒一本持ってきておくれ』
誰|憚《はばか》
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