酒渇記
佐藤垢石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)海豚《いるか》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大|鮪《まぐろ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「竹かんむり/均」、第3水準1−89−63]庭
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     一

 近年、お正月の門松の林のなかに羽織袴をつけた酔っ払いが、海豚《いるか》が岡へあがったような容《さま》でぶっ倒れている風景にあまり接しなくなったのは年始人お行儀のために、まことに結構な話である。また露地の入口に小間物店を開いた跡が絶えて少なくなったのも衛生上甚だ喜ばしい。
 それというのは、ご時世で物の値が一帯に高くなり酒ばかり飲んでいたのでは生活向きが立たなくなるという考えが、飲み放題のお正月へも影響してお互いに控えましょう、となった結果であると思う。松の内くらいは、などと意地汚いのは時代に副《そ》わぬものだ。お互いに、物の消費を少なくして、国家経済の向かうところに従ってゆこうではないか。だが、理屈は抜きにして昔のお正月のことを回顧して、こん日の美俗に思いを寄せると、ただ何となく物さびしい気がする。
 私なども、若い時から大酒飲みで讃酒の生涯を送ってきたが、この頃では大して飲まなくなった。いや、飲まなくなったのではない、飲めなくなったのだ。心献《しんこん》に、輓近《ばんきん》の美俗を尊重するつもりはないのだけれど、こう物価が鰻のぼりにのぼってきては、思う存分飲む訳にはゆかないからである。ほんとうに、これで参ったというほど頂戴してみたい。などと、さもしい夢をみることもある。
 私の父も、随分酒が好きであった。毎日、朝から酔っ払っていたのである。しかし、おとなしい酒で、酔ってもにこにこしているが、一年中朝からにこにこされているのには家族の者も閉口した。私の子供のころ、近所の醸造元から毎夕二升入りの兵庫樽を配達してきた。それで金三十銭。つまり、一升十五銭という勘定である。こんな安い大乗《だいじょう》の茶を飲んで、朝から瓶盞《へいさん》の仁となっていられた父は幸福であった。
 いま時、一升十五銭などという安い酒は思いもよらない。酒楼に上がれば、一合三、四勺入りの徳利を二合入りと称して、一本七十銭から八十銭と勘定書についてくる。酔い潰れるほど、飲めなくなった所以《ゆえん》であろう。

     二

 二升入りの兵庫樽一本三十銭は、明治中世の話であるが、維新前は我々に想像もつかぬほど安かったものだ。
 奈良般若寺の古牒《こちょう》によると、慶長七年三月十三日の買い入れで、厨事《ちゅうじ》以下行米三石六斗の代価七貫百三十二文、上酒一斗二百十八文、下酒二斗三升で二百十七文とあるが、当時の貸幣価値は当時使用したものでなければ分からないから、慶長頃の酒がどんなに安かったものか判断がつかない。二代将軍秀忠の慶安年中は、いまから二百九十年ばかり前になる。そのころ、江戸鍛冶橋御門前南隅に小島屋嘉兵衛という酒類、醤油を売る店があった。この店で市中へ撒いた引き札に、古酒一升につき大酒代六十四文、西宮上酒代七十二文、伊丹西宮上酒代八十文、池田極上酒代百文、大極上酒代百十六文、大極上々酒代百三十二文とある。ところが、同じ引き札に醤油の値段も書いてある。それによると、大阪河内屋代百八文、難屋代七十二文、近江屋代七十文、銚子代六十文とあるのを見ると、当時は酒に比べて醤油の方が割合に高価で、醤油の上物と酒の極上物と相匹敵しているのは、いま酒の市価が醤油の四倍から五倍になっているのを思うと、甚だ残念で堪《たま》らぬ。
 下《くだ》って、享保頃の諸式の価を調べてみると、とぼし油五合で一百文、白豆四升六合で一百文、白木綿一反で三百文、岩槻霜降木綿一反が四百文、新諸白(新清酒)二升が百四十八文、上々醤油一樽が四百四十八文、上酒五升で四百三十文、上白餅米三斗六升で一分、足袋四足が百七十二文(七文半二足一足三十文宛、九文半さし足袋六十三文、九文半四十八文)、白米三斗九升が一分、秩父絹二疋で二朱と四百文、駕籠《かご》賃(飯田台から赤羽橋まで)七十四文、大|鮪《まぐろ》片身二百二十四文、榧《かや》の油五合が二十四文、白砂糖半斤五十二文、駕籠賃(尾張町から白山まで)百十文。
 以上のような物の価であるが、当時一分に対して銭が一貫二百六十文、また文金一歩に対して銭が七百五十二文であった。
 そのころ私らが生まれていれば、一升八十文の上酒を茶碗に酌んで、片身二百二十四文の大鮪を眺めることができたろうに――。
 ついで明治五年以前には、半紙が十二文から、十四文、十六文、二十文と騰貴《とうき》し、酒は一升百二
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