十四文から百三十二文、さらに百四十八文から百六十四文、二百文に急騰した。これは明治五年に、南鐐四文銭が世に出て相場が賤くなり、諸色が貴くなった関係であるという。
文化文政ごろの酒については、『五月雨草紙』に和泉町四方の滝水一升二百文なり。鎌倉河岸豊島屋の剣菱同二百八十文なり。予が先考は、酒を嗜《たしな》みたれど剣菱を用いて、その薄色辛口というを常の飲料とせり。その次は二百五十文、二百文、下に至りて百五十文まであり。されば、一樽の価最上の品一両二分。それより一両一分、また三分二朱位までもあり。その頃の酒品の宜しと思えるは、先考は物を煮るにいたく美淋酒を厭《いと》われ、常に剣菱を鍋の中に入れ沸かし、火をその中へ投ずれば忽ち燃ゆ。両三次にしてその味を生ずる故、魚をいれて煮たり。その醇醪《じゅんろう》なること知るべし。いま時は一合の価むかしの一升に過ぎたれど、火を投ずれば直ちに滅すること水に異ならず。外祖父三木正啓翁(寛政年中御先手加役火附盗賊改役を勤めて有名なりし長谷川平蔵の弟なり)予が家に来りて環るる毎に外祖母に語られたるは、婿殿の家に至り酒を飲楽しけれど、その気烈にして鼻を衝《つ》き、眼を薫《くん》ずるに困ると申されたりと。と、書いてある。
三
江戸末期になると、酒の質が次第に悪くなったようである。気烈にして鼻を衝き、眼を薫ずるには閉口する、とこぼした類《たぐい》の酒が市中を横行したに違いない。
やはり、文政頃の酒価と酒の質について『異聞雑考』の記すところでは――味噌は甲午の夏五月より、金一両二十貫四百目になりぬ。諸物の貴きこと此ときに極《きわま》れり。酒は一升三百三十二文より下価の物なし。それも水を加味しぬるより、味ひ水くさく酔はずといふ。多く飲む者は必ず下痢す。升売酒屋は各紙牌を張り出し、酒高価に付はかり切に仕候[#「候」は底本では「侯」]。入れ物御持参下さるべく候、と記したり。この余、薪炭紙絹布の類、魚肉野菜に至るまで、日用の物はひとつも下値なるはなし。悉く記するに遑《いとま》あらず。余は、なぞらへて知るべし――と、あった。
文化文政頃の酒徒が、元享永祿の昔、伊勢国で酒一升銭十九文から二十三文位の値であったという古い記録を見て、大いに自分達の不幸を嘆じたさまが、眼に映るようだ。けれど、天正時代となると既に酒が高くなったのをこぼしているのがある。『天正日記』に――天正十八年十日、はれる。江戸入のしたくにて万右衛門殿はじめ、とりどりかけはしる。酒一升七十文、するがより五文たかし。殿様今日御城へ御入也。酒一升七十文は、米価に比するに大抵五倍の差あり、酒価の古記に見えしものを参考するに、余り貴きに似たり――と、昔を恋しがった。
されば、昭和時代の我々酒徒が、酒が高くなったのに愚痴《ぐち》を重ねて囁くのも当然だ。もうこれからは、白粉《おしろい》をつけた女のいる酒場で一杯二円、三円の洋酒など、山芋が鰻になっても飲むまいぞ。もし、僕たちが若い時から飲兵衛でなかったら、随分いま頃は金持ちになっていただろうなあと嘆息まじりに飲み仲間で談じ合うことが度々《たびたび》ある。極《ご》く内輪に見て、一日平均三合宛飲んだとすれば、この歳になるまで一体どの位の量になったろう。かりに三十年間飲んだとして、一万九百五十日、計三十二石八斗五升となる。つまり、六尺樽一本近くだ。この金で、国債でも買って置いたならなど、死んだ児の齢を数えるように、熟柿に似た呼吸を吹き合う。
それは、私の十七歳の初夏であったと思う。赤城山へ登山して、地蔵岳から鍬柄峠の方へ続くあの広い牧場で淡紅の馬つつじを眺め、帰り路は湯の沢の渓を下山した。塚原卜伝と真庭念流の小天狗と木剣を交えた三夜沢の赤城神社を参拝してから、関東の大侠大前田英五郎の墓のある大胡町へ泊まった。宿屋は、伊勢屋というのであったと記憶している。
台洋灯の下へ、女中が晩の膳を運んできた。その時、何ということなしに、ふと、
――酒を飲んでみようか――
と考えた。日ごろ、父がおいしそうに飲む姿を眺めていると、父は酔眼の眦《めじり》を垂れて私に、
『お前も一杯やってみるか』
などとからかうことがある。ところが、これを母がすかさず聞きつけて、
『とんでもない――酒は子供の頂くものじゃない』
と、父と私をきびしくたしなめたことが幾度かあった。
だから私は、酒が飲みたいなどと一度も思ったことがなかった。けれど、こうしてひとりで旅の宿に夜を迎え、高足膳に対してみると、一室の主人公といったような気持ちがする。
『お前も一杯やってみるか』と言った父の言葉が頭の何処《どこ》かを掠《かす》めた。そこで、ただ何となく『飲んでみるか』と軽く考えたのである。
『女中さん、酒一本持ってきておくれ』
誰|憚《はばか》
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