るものがいないのだから、私は大胆に注文した。すると、女中はこの子供がまあ呆れたといったような顔して眼を瞠《みは》る。
『嘘じゃない、ほんとだよ』
 たとえ、少年であっても俺は客だ、という気でいるから、私は人怖じなどしない。
 女中は微笑しながら起《た》っていって、やがて酒壜と杯を持ってきた。この壜に正味一合入ることは、いつも徳利の大小について父と母との問答を聞いているから、的確に判断がつく。
『ごゆっくり』
 と、言って女中がまた微笑して去ったあとで、私は眼をつむってまず一杯を喉へおとした。眼をつむるというのは、舌に感覚を与えまいとする用心なのだ。つまり酒は随分苦いだろう、という予感があったからだ。ところが苦いどころか甚だおいしい。眼をつむるなんて、近ごろの言葉でいえばひどく認識不足であると自笑した。
 それからは眼を開いたまま、グイグイと忽ち一本を平らげた。手を叩いて、も一本。さらに、も一本。都合三本を、手間ひまかけずに飲み干したのである。であるのに、少し肩の骨がゆるんだような気がしているのと、正面の襖が左に回転しかけて、また元の位置へ戻る運動を続けはじめたくらいで、別段苦しくも何ともない。いい気持ちである。
 ――さすがに、俺は父の子である――
 と、思った。生まれてはじめて口にした酒を、正味三合ぺろりと酌んでしまったのには我れながら驚く。しかも、飲み抜けていま酔態を演じているとも考えぬ。
 ――俺は、酒の天才かな――
 ひそかに、こんなことを感ずる。それから女中を呼んで、飯を盛らせて静かに食べた。

     四

 酒の天才など、何の役にもたたない。とうとう私の一生は、酒のために祟《たた》られてしまった。
『本朝二十四孝』八人の猩々講《しょうじょうこう》に――波の鼓の色もよく、長崎の湊にして猩々講を結び、椙村のうちに松尾大明神を勧請中、甘口辛口二つの壺を[#「壺を」は底本では「壼を」]ならべ、名のある八人の大上戸|爰《ここ》に集まる。大蛇の甚三郎、酒呑童子の勘内、和東坡の藤助、常夢の森右衛門、三人機嫌の四平、鈎掛升の六之進、早意の久左衛門、九日の菊兵衛この者共の参会、元日より大年まで酔の覚めたる時もなく、いつとても千秋楽は酒のみかかる時うたうて仕舞、兎角正気のあるうちは、身を酒瓶の底にしづめ、万上のたのしみ是にきはめける――
 と、あるが私の身にとっては、酒は万世のたのしみどころではない、苦しみであった。もしこの世に酒という水がなかったならばと怨んだことが幾度あったか数えられないほどである。
 そもそも私が、禁酒の念を起こしたのは二十四歳の春であった。契禁酒、と紙に書いて床の間にかけ朝夕礼拝したこともあり、自今禁酒の新聞広告をしたことさえある。けれど、ものの一週間と続いたためしがない。
 竹林の七賢の筆頭|劉伶《りゅうれい》は、かつて酒渇を病んだことがある。酒渇というのは、いまの酒精中毒のことであろう。それでも、女房の顔さえ見れば『酒を出せ、酒を出せ』とせがむのだ。細君は劉伶の身を案じて蔵に入れて置いた酒を棄て、夫君鍾愛の酒器を毀してしまった。そして泣いて諫《いさ》めて言うに、何としてもあなたは大酒すぎる。これは、決して摂生の道ではありません。どうぞ、禁酒を断行してください、と貞節のほどを示したのである。すると劉伶は、にっこりと笑って妻君に向かい、よく分かった。けれど、俺は意志薄弱で自分の心だけでは、禁酒の契を実行できそうもない。そこで考えたのだが、鬼神に自分の必を契って酒を断つのが、一番いい方法だろう。それには、鬼神に酒と肉を供えて礼を尽くす必要がある。善は急げだ。お前はもう酒を棄て酒器を砕いてしまったのだから、何処かへいって酒肴を買ってきてくれ。と言った。細君は、夫が自分の言葉をきいてくれたのを喜んで、いそいそと出ていって買ってきた。ところが劉伶は、その酒と肉を鬼神には供えないで自分の前へ供えてしまった。そして、跪いて祝詞を唱え、天劉伶を生む、酒を以て名を為す。一飲一斛五斗にして醒を解す。女の言葉など慎んで聴くものじゃない、と言って破顔一笑。仍《すなわ》ち酒を引き肉を御し、隗然《かいぜん》たるのみ。復た酔う矣。
 こんな話が、太平御覧という書物に書いてある。私は劉伶をまねて自分を偽るのではない。やはり、薄志弱行のために禁酒が続けられないのだ。必の契りを破るたびに、劉伶の話を思い出し百万の味方を得た感を深うするのである。

     五

 慶安三年の五月ごろ、酒井雅楽頭の侍医で武州江戸大塚に住んでいた樽次こと茨木春朔と、やはり武州池上新田に住する池上太郎右衛門底深という人と酒合戦を行なったことは、茨木樽次が戲書『水鳥記』に詳しく書いてあるので誰も知っている。慶安のころであるというと、この酒合戦には一升六十四文から、
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