前と呼ぶ山村に、村医をつとめていたことがある。この山村は、上州と信州との国境に近く、東北に八千尺の白根火山が聳え、西に吾妻山、南に鳥居峠を挟んで浅間山が蟠踞《ばんきょ》している山また山の辺境だ。
さらに、その奥の渓に干俣という部落がある。ここに、親子の熊捕りの名人がいて毎年春の雪解け頃になると、白根火山のうしろに続く万座山の奥へ分け入って、四、五頭の熊を撃ち獲るのであるが、ある年親子の者が大熊を撃ち倒して、村の医者さまである義弟のところへ舁《かつ》ぎこんだ。
折柄、私は吾妻渓谷へ雪代|山女魚《やまめ》を釣りに行き、義弟の家へ泊まっていたのでこれを見ると素晴らしい黒熊だ。鮮やかな月の輪が、咽を彩っている。猟師親子の腕前に感服しながら、仔細に熊体の四肢に眼を移して行くと、四本とも足首から先が切り取ってある。
おいおい、熊の足の掌は素敵な美味ときいているが、足首から先を切り取ってしまっては、値打ちが半分もないじゃないか、と私がいうと猟師は、さようでがんす。熊の掌は、からだのどこよりも一番腐りやすいところだから、山で足首だけを鉈《なた》で切り取り、鍋に入れて親子で煮て食っちまいましたんで
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