前と呼ぶ山村に、村医をつとめていたことがある。この山村は、上州と信州との国境に近く、東北に八千尺の白根火山が聳え、西に吾妻山、南に鳥居峠を挟んで浅間山が蟠踞《ばんきょ》している山また山の辺境だ。
 さらに、その奥の渓に干俣という部落がある。ここに、親子の熊捕りの名人がいて毎年春の雪解け頃になると、白根火山のうしろに続く万座山の奥へ分け入って、四、五頭の熊を撃ち獲るのであるが、ある年親子の者が大熊を撃ち倒して、村の医者さまである義弟のところへ舁《かつ》ぎこんだ。
 折柄、私は吾妻渓谷へ雪代|山女魚《やまめ》を釣りに行き、義弟の家へ泊まっていたのでこれを見ると素晴らしい黒熊だ。鮮やかな月の輪が、咽を彩っている。猟師親子の腕前に感服しながら、仔細に熊体の四肢に眼を移して行くと、四本とも足首から先が切り取ってある。
 おいおい、熊の足の掌は素敵な美味ときいているが、足首から先を切り取ってしまっては、値打ちが半分もないじゃないか、と私がいうと猟師は、さようでがんす。熊の掌は、からだのどこよりも一番腐りやすいところだから、山で足首だけを鉈《なた》で切り取り、鍋に入れて親子で煮て食っちまいましたんですが。と、答えるのである。やはりうまかったと言う。
 そこで義弟は、時値の半値で買い取り毛皮はいまなお医局の一室を飾っているが、そのとき熊肉のすき焼きをこしらえて二人でたらふく食ったのである。加役に根深と芹を刻んで鍋に入れ、少々味噌を落として汁を作り、それから賽の目に切った熊の肉を投じ、ふつふつと煮立てて口へなげ込んだところ、まことに濃澹な珍饌に、驚いたのであった。
 土に親しみ、穴を住まいとする獣には、土の香が肉に沁み込んでいるものと見える。その、土の香を含む賽の目の肉塊がほんのりと私の嗅覚に漂って、野獣を炊く感を一層深くさせる。牛にも馬にも豚にも、肉に土の香はない。鴨や雉子の肉には土臭があるが、家鶏や七面鳥に土臭がないのと同じだ。野に棲む鳥獣の肉は、土の香を持つのが特色であろう。
 熊の肉を食って寝たその夜、ぽかぽかと五体がぬくもり床上に長く快夢を貪るのであった。

  三

 小説家伊藤永之介の書いた「熊」という戯曲を読んだことがある。描いたのは、出羽国鳥海山の麓の一寒村の出来ごとだ。三人の猟師が、一頭の大熊を獲ってきたのを高利貸、地主、滞納処分の役場吏員が取り囲んで、吹雪の吹き
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