香魚と水質
佐藤垢石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)好厭《こんえん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)性食|渾然《こんぜん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)厚さ[#「厚さ」はママ]
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食事が、必要から好厭《こんえん》に分かれ、さらに趣味にまで進んできたのは、既に五千年の昔であるのを古代支那人が料理書に記している。必要と好厭は、動物の世界にある共通の事実だが食品を耽味《たんみ》するという道楽は、人間ばかりが持っている奢りらしい。
新秋の爽涼、肌を慰むるこの頃、俄に耽味の奢りが、舌端によみがえりきたるを覚える。けだし古来、生は食にあるか性にあるか、と論ぜられるけれど、性食|渾然《こんぜん》としたところに人生があるのではあるまいか。だが、筆者は既に中老、性の方面はドライの域に入りて数年、いまはただ食味の方面のみ、人生の造営を眺めているのである。
大根、菜、芋、茸などの姿を眼に描けば、皮下に肉脂溢るる思いがする。野菜の味品ほど人に親しまれるものは他にあるまい。魚獣の佳味、美器の艶谷を誇ったところで、野菜の点彩がなければ、割烹《かっぽう》の理に達したとはいえないであろう。
野菜の至味を想う頃、筆者の食感を揺するものに、初秋の鮎がいる。共に、野趣豊かな高い香気を持つゆえのものは、一つは地中の滋汁を吸って育ち、一つは川底の水垢を採って生き、何れも大自然から直接栄養を得ているためではあるまいかと思う。
鮎は、七月下旬から八月中旬にかけて肥育の極に達した頃を至味といわれているが、初秋の風、峡谷の葛の葉を訪れる候に、そろそろ卵巣のふくれてきた大鮎は、また棄てがたいのである。腹に片子を持つと腸の渋味に、濃淡の趣を添えて、味聖の絶讃を買う。しかも、錆鮎の頃と異なって、脂肪も去らず肩の付け根から胴へかけ、肉張りが充分厚いのである。
季節によって、味に凋落高調のあるのは鮎ばかりではあるまい。また、野菜、魚類、獣類とも産地によって味を異にする。殊に鮎は、産地と味とに深い関係を持っているのである。産地を知り、魚品を知ってその味を含み分けるところに、食道楽の嗜趣を認め得ると思う。それは、都会の割烹店に座して美女の接待にのみ、味覚を働かせたのでは望み得ない。旅にまかせて、諸国の川を渉漁《しょうりょう》してこそ、味聖の心を知り得るのである。
筆者の経験したところによると、鮎の品質と岩質には深い関係があると思う。つまり、鮎の育った川の石の質によって、味と香気とに確然とした差が生まれてくるというのである。もとより筆者は、動物学者でも地質学者でもないから、科学的に示すわけにはいかないが、多年眼に川を見、舌に鮎を味あわせてきた識感が、我れから我れに物語る。
水源地方に、古生層つまり水成岩の層を持った川の鮎は品質が上等である。これに引きかえ、水源地方の山塊が火成岩である川に育った鮎は味も劣り、香気も薄い。殊に、河原に火山岩が磊々《らいらい》としている川の鮎は、まことに品質がよくないのである。これは、古生層の岩の間から滴り落ちる水は、清冽な質を持ち、それから発生する水垢は、少しの泥垢も交えないので純粋であるからよく鮎の嗜好に適している。ところが、火成岩の山塊を水源とする川の水は、水成岩のそれのように清冽ではない。従ってそこに発生する水垢の質は上等とはいえないのである。
そればかりではない。川底にある水成岩の石の面は滑らかであるから、鮎が石の面の垢をなめるに都合よくできている。これと反対に火成岩の石の面は甚だ粗荒である。鮎の口を損ないやすいことが知れよう。良質の水垢を豊かに食った鮎は香気が高く肉が締まり、泥垢を食った鮎は匂いが薄く、肉がやわらかである。こんなことを頭において鮎を見れば、食味に一段の興趣を添う。
秋気に最も敏感なのは水である。麓の村々ではまだ残る厚さに[#「厚さに」はママ]あえいでいるというのに、土用が終わって一旬も過ぎると、奥山の深い谿《たに》々の底には、もう冷涼の気が忍びやかにうかがい寄って、崖の小草を悲しませる。そして、里川の水は、日中は何とも感じないけれど、朝夕は人の肌にしみて遠い遠い渓流の初秋を想わせるのである。
その頃になると、鮎は成熟しきる。いままで花々しさを誇った青銀色の鱗の底から、そろそろ淡い紅の艶が、刷毛《はけ》で刷いたように浮かび出し、もう肥育が止まり、これからは性の使命にいそしむばかりであるという姿になる。この時の鮎は、味品の絶頂に達する。諸国自慢の鮎は、この初秋にとれるものをさすのであった。
実にお国自慢の鮎は多かった。これは、人情でもあり、ほんとうでもある。代表的なお国自慢は、鮎の多摩川である。大東京幾十万の鮎釣り党は、
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