多摩川の鮎釣り党は、多摩川の鮎を日本一なりと主張して、一歩も退かない確信を持っていた。
それは、理にかなっていた。多摩川の水源地方、山梨県北都留郡一帯は花崗岩(火成岩)の層に掩われているが、ひとたび武蔵の国へ入ると古生層の露出を見せて、それが小河内、日原、御岳にまでも押し広がっている。だから、羽村の堰から下流は地質が悪いにも拘わらず良質の水垢を発生する水成岩の転石が、河原に磊々としていたからである。こんな関係で、東京に近い多摩川の鮎の質はまことに優秀であった。お隣の、悪質の火成岩を河原の転石に持つ相模川の鮎に比べれば、食味も姿も水際立って優れていた。日本一とまではいくまいが、少なくとも関東一くらいに誇っても、外から苦情は出なかったかも知れない。
ところが、東京が次第に大きな姿になるに従って、多摩川の水はことごとく上水道に奪われてしまった。甲州や武州の山奥の水成岩の割れ目から、一滴ずつ滴り落ちた水の集まりは羽村の堰で塞き上げられ、東京市民の喉をうるおすのである。そこで、羽村から下流の多摩川の水は多摩川本来の水とは全く縁を絶って、いまでは、僅かに一本の支流秋川を合わせるのみで、他は全部田用水の落ち尻か、川敷からわき出た水ばかりである。昔とは、全く水の質を異にするようになったのである。何で食味を誇るに足る上等の鮎が得られよう。
それでもまだ東京の人々は、多摩川の鮎を日本一なりと主張して譲らない。
久慈川沿岸の人にいわせれば、久慈川の鮎を日本一なりと誇り、富士川沿岸へ行けば富士川の鮎は絶品なりと自慢する土地の人は、そのよってきたる理由を知らないのであるが、筆者から見れば決して無稽なことをいっているのではないと説明できるのである。即ち、久慈川の上流一帯は鮎の最も好む阿武隈古生層が地表に露出して、水質まことに清らかにまた水垢がいかにもおいしそうに川底の石の表を塗りこめている。富士川も峡中を流れる笛吹、釜無の二支流こそ花崗岩に満たされているが、この二支流を合わせた鰍沢から下流一帯と支流の早川は、日本でも最も古い水成岩の転石が川底を埋めているから、そこに発生する水垢が悪かろうはずがない。鮎の質が上等で、香気が高い所以《ゆえん》である。
人間の舌の発達は測り知れない。いろいろの方面に趣味を求めて進んでいく。そこで食品の特質に興味を持つ人は、水温と魚の骨の硬軟に微妙な関係のあることを知っておかねばならないのである。爽涼、胃と味覚の活動を促す初秋において殊にそれを思う。
鮎は好んで水温の高い川に棲むというが、水温の低い川に棲んでいる鮎の方が肉も締まり、香気も高い。そして、骨がやわらかいのである。焼いても煮ても、頭も骨も歯も労することが少なく、かえって骨を味わうために一種の風趣を感ずるのである。であるから、骨の硬い鮎を箸にした時は、下流の水温の高い緩やかな流れに泥垢を食って育ったものと知っておく必要がある。
利根川は中部日本では、四季を通じて最も水温の低い川の一つである。五月下旬から六月上旬、若鮎の遡上最も盛んであるという頃に、水温は摂氏の八度から十二度くらいを往復している。
銚子河口や江戸川から冬中、海で育った小鮎が淡水に向かうのは三月下旬から四月中旬へかけて、雪解《ゆきどけ》水が出はじめた頃であるが、人の肌を切るような冷たい水を小鮎は上流へ、上流へと遡っていく。
そして遡りつめたところは、死魔の棲むという谷川岳に近い水上温泉の下流二里ばかりの奥利根川である。この辺は真夏でも日中二十度を超えることが少ない。朝夕、水に浸ればふるえてしまう。それでも鮎は大きく育つ。五、六十匁から八十匁の姿となるが、胴が丸く肉が締まり骨はやわらかである。水が冷えれば冷えるほど、頭と骨がやわらかになる。秋の出水が上流の簗《やな》の簀《す》に白泡を立て、注ぎ去れば跡に大きな子持ち鮎が躍っている。その頃は、冷え冷えと流水が足にしむのであるが、鮎の骨は一層やわらかである。秋鮎の骨は、棄てるものではない。
山女魚《やまめ》も、水温の低い渓流に棲んでいるものほど、骨がやわらかである。奥多摩川でも奥利根川でも、暑中水温の割合に高い中流に棲んでいる山女魚を見るが、これは骨が何となく舌に触わるのである。
嶺の紅葉を波頭にのせて、奥山から流れる渓水と共に、里近い川へ出てくる秋の山女魚を木の葉山女魚というが、これは殊のほか骨がやわらかい。そして、食味もすぐれている。それは、渓川の水が次第に冷えてきたからである。
産卵後間もない夏のうぐいは、肉に一種の臭みを持ち、骨が硬いために到底食膳にのせ得ないのであるが、秋水に泳ぐ頃となれば見返すほどの食味となる。鰍《かじか》の骨と肉も、水温と密接の関係を持つ。
鰍の族が三、四十種あるうち、海近い河口に棲むダボ鯊《はぜ》に似た鰍は
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