桑の虫と小伜
佐藤垢石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)欅《けやき》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)茨城県|西金《さいがね》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)はや[#「はや」に傍点]
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 私の故郷の家の、うしろの方に森に囲まれた古沼がある。西側は、欅《けやき》や椋《むく》、榎《えのき》などの大樹が生い茂り、北側は、濃い竹林が掩《おお》いかぶさっている。東側は厚い桑園に続いていて、南側だけが、わずかに野道に接しているが、一人で釣っているには、薄気味が悪過ぎる。
 そこには、鮒と鯰が数多く棲んでいる。十一、二歳になる私の伜は、学校から帰ってくると、おやつを噛み噛み、釣り竿を担いでその沼へ出かけて行った。ある秋の日、この小伜がその古沼から大きな鮒を、一貫目近いほど釣ってきた。伜は、息をはずませながら、手柄を誇るのであった。
『それは偉《えら》い――ところで、餌はいつもの通り、みみずを使ったのか』
 と、問うてみた。
『みみずじゃない、桑の虫だよ』
『なんだ、桑の虫だ? そんなものが餌になるのか』
『父さん、知らないのかい。駄目だねえ』
『ほんとうか』
『僕、うそ言わないよ。今日はじめて使ってみたんだ』
 伜が、こう答えて語るのを聞くと、その日は餌のみみずが少なかったのだが、鈎を入れると、次から次へ口細《くちぼそ》に取られてしまって、餌が一匹もなくなった。困り果てて、ぼんやり沼の面《おもて》を眺めていると、対岸に生えている大きな榎の枝から一匹の小さな青虫が、糸をひいて垂れ下がってきた。
 糸をひいた青虫が、やがて水面へ達して水に触れると、その途端に大きな魚がそれを呑み込んでしまった。その魚は、鯉であったか鮒であったか鯰であったか、姿は分からない。ただ、その場に水輪が残るのみであった。
 村の子供たちは、秋になると桑の葉に小さな青虫がつくのを知っている。葉の裏に皺をよせ、その皺に細い糸を幾筋もわたして隠れ棲んでいる長さ一分五厘くらいの小虫である。私の小伜も、それを知っていた。榎の枝から小さな青虫が垂れ下がったのを沼の魚が奪い食ったのを見て、想い当たったらしい。
 すぐ桑畑に分け入って、桑の虫を捕らえ、これを鈎にさして、試《ため》しに沼へ放り込んでみた。入れて間もなく当たりがある。上げると
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