雉子《きじ》の雄は二月、三月が季節の盛りで、雌の方は三月、四月が最高潮である。鴨でも、鯛でも、鮎でも雄の方へ一足先に季節がくる。すべて野生の動物は、雄の方へ一ヵ月ほど早く、春機発動の期がきて早く衰え、雌の方が常に遅れているのである。
水禽《すいきん》は概して雄の方が上等の味を持っている。鴨、シギ、オシドリなどそれである。家鴨も雄の味が上等としてある。四月は鴨の季節であるから、雌雄二羽が店頭にあったら雄を求めるのが食通といえる。雉子は二月に雄、四月に雌ということになっているが、大体において雌の方がおいしい味を持っているのである。
そこで、動物の味の季節が生殖に深い関係を持っているとすれば、必然的に年齢のことを考えねばならない。いかに若いものがすきであるからといったところで、性の使命を覚えないものではとるに足るまい。
いわゆる、春情相催す年頃にならねば、真の味が出てこないものである。しかし、年をとったものがいいといったところで、生殖力が衰えてからでは面白くない。即ち、上がってしまってからでは濃爛《のうらん》の媚を求め得ないのである。
それに例外がないでもない。支那人は若い雛鳥を、西洋人は子牛を、日本人は若鮎と若|茄子《なす》を好む風がある。しかし、これは恐らく味の上からではなく、一種の嗜好からきているのではあるまいか。年を取り過ぎたものに味があろうはずがない。ものの味は、性欲がついた後、また性欲の衰える以前のものでなければならない。即ちすべて動物は、春情が催しきたってそれが衰えるまでの間を壮盛期といい、その壮盛期の間においてのみ、年に一回季節がくるのを、食味の至極とするのである。
鰻《うなぎ》もそうである。三、四十匁の小串を好むものもあるが、それはただ、軽い味というだけである。ほんとうは五十匁以上、百匁近いものに味がある。
鰻は海からさかのぼってきて、六、七年川や沼に棲んでいると産卵のために海へ帰ってゆく。十六、七年も海へ帰らぬものもあるが、それは棲息場所の状態によってであるから例外である。産卵のため海へ帰って行く、その下り鰻というのがうまい。からだが熟成して肉が張りきっているからである。江戸前の鰻がいい、というのもそこに関係がある。月島[#「月島」は底本では「月鳥」]周りや台場周りには、荒川の上流から下《くだ》ってきて、遠い深海へ生殖に行く鰻が、居付きの鰻
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