、年に二回三回と催すものもあるがそれは例外で、年一回が普通であろう。その生殖の期と、味の季節の頂上とがいつも一致すると考えていい。
 十一月初旬から江戸前で釣れる鰡《ぼら》についてみると一番分かる。十二月下旬になって産卵のため外洋へ出る途中の東京湾口で釣れたものは味が落ちる。それは腹に子を持ったからである。江戸前の大鰡で腹に子のない十月下旬から十一月中旬が最もおいしいのである。からだ中の脂肪が生殖腺に吸収されてしまわないからである。
 雉子《きじ》なども一度交尾すればもうおしまいである。十月頃奥山から出てきて、餌をあさりはじめる。十二月初旬雪が降る候になると、そろそろ脂肪を持ちはじめ、一月から二月には春機が発動して、羽根の色にも筋肉の容にも生気が漲《みなぎ》って三月、四月には雌雄相交わり、五月には産卵して育児にいそしむ。ところが十二月に脂肪が乗りはじめて、一月、二月の頃、性の営みを覚えてくるまでは大層味が立派であるが、一度雌雄相交わると俄に味が劣ってくる。それが産卵し、卵を孵化して子を育てるに至ると、まことに食うに堪えないまで肉質が下落するのである。
 ところが、ここに例外がある。
 動物は必ず一年に一度ずつ、交会の期が回ってくるものであるが、季節なく春機の動くものがある。それは家鶏、家鴨、豚、飼いウサギなどである。これらは一年中、時と場所を選ばないから、いつといって味の季節がない。
 本来、野獣、野禽《やきん》、魚類は生活のために大層な努力を費やす。食物を得るために死物狂いとなり、外敵を防ぐために頭を使う。ところが、家鶏や豚は、人間から厚く保護され、食物を得る心配もなければ、外敵を防ぐ必要もない。人間に保護されている幸福な家鶏や豚は、蓄えた精力を常に生殖専門にそそぐようになったので、その結果として家鶏にも、豚にも味の季節がなくなったのである。だが極めて厳格に凝視すると、祖先が野にあった頃の遺風が僅かに痕跡をとどめていないでもない。家鶏は三月の頃よく交会を好み家鴨は五、六月の候を※[#「言+区」、第4水準2−88−54]歌する風がある。従って味に季節があるといえば、いえるのであるが、それは極めて微妙であって軽少である。しかし野生の動物の持ち味に比すべくもないことは勿論のことであろう。
 そしてまた、男女両性はその持ち味も同じでありそうなものだが、なかなかそうでない。
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