船は全速力で、追跡をはじめた。次第に鯨に迫って行く。海中へ沈んでは潜り、潜っては背中を出す鯨だ。ついに、舳から四、五十間のところまで追いつめた時、一頭の鯨がむっちりとした大きなお尻を波間へ出した。
 だが、そのとき鯨は自分が船に追いかけられているのを覚ったらしい。全速力――鯨は一時間十五哩走る力がある。それで走ったから、全速力十三哩のキャッチャーボートでは追いつかれない。とうとう、鯨群をまだ晴れきれない霧の中へ見逃してしまった。
 おいしいところは、あのむっちりとした腰の肉なんですか、と船長に問うと、そうです、あれは例の鰮《いわし》鯨で腰肉が素晴らしくおいしいのだが、あんな処女のように丸々とした腰を持っていながら、なかなかの薄情ものだ。雌雄連れ添って泳いでいる鯨を、まず雄の方から先に撃つと、雌は雄の苦しむのを見捨ててまっしぐらに逃げてしまう。それまでは随分|喋々喃々《ちょうちょうなんなん》とやっていたのであろうが、身に危険が迫ると恋人も何もない。まあ、モダンガールといったところでしょうかな。
 ところが雄鯨は情愛が深い。雌鯨が銛《もり》を打たれると、決して側《そば》を離れないのである。
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