心痛、悲哀の状を真っ黒い背中に現わして、雌の傷口から流れ出した鮮血で真っ赤になった海上を、おろおろと徘徊する。そこで砲手は人情を出してはいけない。続いてズドンと雄に一発喰わせる。まず、雌を撃ちとって置けば、一漁に二頭を獲るのは定跡《じょうせき》となっている。鯨の鼻の下の幅を計ったことはないが、人間の男と大差はないらしい。
また、甚だ物のあわれをとどめるのは、離れ抹香《まっこう》という奴である。抹香鯨というのは、一頭の雄を二、三十頭の雌がとり巻いて、大群をなして洋上を泳いでいる。ところで、一つの大群と一つの大群が遭遇したら大変なことになる。双方の群れの中から、大きな雄が躍り出して死闘をはじめる。結局、一方が負けるとそれについていた二、三十頭の雌は、悉く勝った方の抹香鯨の群れに投じてしまう。
負けた雄鯨は、一人ぽっちになってしまうのだ。何と情けない雌どもでしょう。これを離れ抹香というのだが、一人ぽっちになった雄鯨は、ほかにも雌から嫌われた雄があるとみえて、大きな雄ばかりが七、八頭群れをなし、雌をまじえず仲よく泳いでいることがある。
四
夕飯のときがきた。
甚だ不躾《ぶしつ》けの話だが、早く夕飯のときがくればいいと待っていたのである。またも、卓上は山海の珍味だ。捕鯨船というのは、おそろしくご馳走を食わせるところだ。
鰹のたたき、あいなめの煮物、船で作った絹|漉《ご》しの冷奴、大根の風呂吹き。これだけあれば食いきれないのだけれど、次に出た鯨肉の水たきが俄然食欲を煽動する。加役に葱、新菊、豆腐の入った鍋の中を、賽の目に刻んだ鯨が泳いでいる。
食った、食った。額からも、胸からも汗が滝のように流れ出した。
翌日は、早朝から濃霧がからりと消え去った。全乗組員が、一斉に緊張する。金華山と、鮫の港を繋いだ線の百三十哩沖で、とうとう一頭の鰮鯨を仕とめた。長さ五十二尺、重さは六十トンもあろうという雌だ。
このお祝いを食堂ではじめた。まず出たのが挽肉でこしらえた鯨のメンチボール、酢味噌に醤油漬けの焼物。これでもか、これでもかというあんばいである。だが、私はなかなかへこたれない。晒し鯨の酢味噌と異なって生鯨には、肉そのものに清快な風趣がある。メンチボール、これは温かい上に柔らかで、何と結構な料理だろう。
この鰮《いわし》鯨一頭で、乗組員一同の一ヵ月分の給料と賄費
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