品な味覚がなかったが、一体鯨はどこの肉でもこんな上品なものですか。と問うと、船長はいやどこの肉でもという訳にはいかない。この刺身にしたのは腰肉といって、鯨の尻尾から少し上の方にある肉で、鯨一頭のうちほんのちょっぴりしかない。市場に出しても、なかなか高価なものであるというのである。
ところで、今度はカツレツが運ばれた。鯨《げい》カツである。私は少々歯が悪いのだがカステラを噛むように口中で砕ける。時局柄のトンカツやテキを上顎と下顎に挟んで、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》を痛くするのとは訳が違う。おかげさまで、麦酒が素敵にうまい。
そのとき突然、船橋で見えた見えたという水夫らのはげしい喧声が聞こえる。船長は、やおら起《た》った。私らもカツを噛みかみ惜しい洋箸を放り出して起った。船橋に立ち登ってみると、前方十五、六町の沖の波の上に、三、四頭の鯨がシュッシュッと潮を前の方へ吹いている。
絵にあるように、頭から背中からまる出しにして、公園の噴水の如くに、美しく四方に水が散っているのではない。シュッシュッと、斜めに短く、自動車のお尻から出る煙のように吹いているのだ。
船は全速力で、追跡をはじめた。次第に鯨に迫って行く。海中へ沈んでは潜り、潜っては背中を出す鯨だ。ついに、舳から四、五十間のところまで追いつめた時、一頭の鯨がむっちりとした大きなお尻を波間へ出した。
だが、そのとき鯨は自分が船に追いかけられているのを覚ったらしい。全速力――鯨は一時間十五哩走る力がある。それで走ったから、全速力十三哩のキャッチャーボートでは追いつかれない。とうとう、鯨群をまだ晴れきれない霧の中へ見逃してしまった。
おいしいところは、あのむっちりとした腰の肉なんですか、と船長に問うと、そうです、あれは例の鰮《いわし》鯨で腰肉が素晴らしくおいしいのだが、あんな処女のように丸々とした腰を持っていながら、なかなかの薄情ものだ。雌雄連れ添って泳いでいる鯨を、まず雄の方から先に撃つと、雌は雄の苦しむのを見捨ててまっしぐらに逃げてしまう。それまでは随分|喋々喃々《ちょうちょうなんなん》とやっていたのであろうが、身に危険が迫ると恋人も何もない。まあ、モダンガールといったところでしょうかな。
ところが雄鯨は情愛が深い。雌鯨が銛《もり》を打たれると、決して側《そば》を離れないのである。
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