岩魚
佐藤垢石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)武尊《ほたか》山
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)金|櫃《びつ》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「玄+少」、第4水準2−80−57]太郎
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一
石坂家は、大利根川と榛名山と浅間火山との間に刻む渓谷に水源を持つ烏川とが合流する上州佐波郡芝根村沼之上の三角州の上に、先祖代々農を営む大地主である。この三角州は幕末、小栗上野が官軍の東上に抗することの不可能であるを知って、江戸城を脱け出し、金|櫃《びつ》に似た数個の箱を運んで上総国行徳地先から舟に乗って家来十人ばかりと共に所領の上州群馬郡三の倉の邸へ志し、次第に溯江して大利根に出で川俣、妻沼、尾島、本庄裏へと舟を漕ぎ上がり、最後に烏川と利根川と合流する地点に上陸して、櫃を運び上げた場所であると伝えられる。石坂家の邸は、間口十二間、奥行八間半の総三階、土蔵三棟、物置二棟、大きな長屋門に厚い築塀をめぐらし、この地方ではまれに見る豪壮な構えである。所有の田地田畑は、三十町歩を超えているらしいという。
この三角州から西を望むと嶺の白い甲州の八ヶ岳、妙義山、淺間山。西東には秩父連山。北方には榛名山、上越国境の谷川岳、武尊《ほたか》山、赤城山。東北には遠く奥日光の男体山が雪を着て高く聳えるなど、まことに景勝の地を石坂家の邸は占めていた。
間口十二間、奥行八間半といえば、一階だけでも百二坪の広さである。すべて畳を敷き詰めれば二百畳に余ろう。であるのに、この石坂家は数代前から、家族四人以上に増加したことがない。大伽籃のような邸に、もう百年近くも常に三、四人の家族が、まことに寂しく暮らしているのである。試みに、石坂家の戸籍を調べてみようか。
失踪 石坂儀右衛門(文政十二年生)
死亡 妻 たみ(天保四年生)
失踪 同 裕八郎(儀右衛門長男安政五年生)
死亡 妻 ふゆ(萬延元年生)
失踪 同 雅衛(裕八郎長男明治十四年生)
現存 妻 みよ(明治十六年生)
失踪 同 清一(雅衛長男明治三十七年生)
現存 妻 きみ(明治三十八年生)
当主 同 賢彌(昭和三年生)
以上を読むと現在この家に住んでいるのは当主の賢彌十九歳と、その母きみ四十一歳、祖母みよ六十四歳の三人だけである。これだけの説明ではまことに平凡であるけれど、賢彌の父清一、祖父雅衛、曾祖父裕八郎、玄祖父儀右衛門の四人が、いずれも揃って失踪していて、今もって的確に何故の失踪か、死場所はどこか、死因はなにか。一つとして分かっていないことが、長い間の不思議な謎とされているのである。
二
安政六年の春、二十七歳になった石坂儀右衛門は、飄然として家出した。遺書に、水戸の東湖塾へ行くと記してあるのみであった。二、三年前に利根の対岸宮郷村の豪農から嫁たみを貰い、昨秋長男の裕八郎が出生してから、まだ半歳とたっていない。
殆ど無断にもひとしい家出に、家のものは驚いた。しかし当時、尊王攘夷の熱が青年の間に高かった世の中であったから、儀右衛門の平素の行状から推察して、水戸行は恐らく偽りではあるまいと思ったのである。そこで直ぐ人を水戸へ急行させて、儀右衛門の所在を探ねさせたけれど、皆目その消息を知ることができなかった。その後も屡々《しばしば》水戸へ人を派したが、水府は東湖塾を中心として混乱していて、一人の青年の行衛《ゆくえ》などまるで尋ねあてる由もなかった。
石坂家では、その後儀右衛門の捜索を思い止まった。それから二十年ばかりたって、坊やの裕八郎は二十一歳になった。その秋、母の許しを得て上越国境の四万温泉に遊び、十日間ばかりの田村茂三郎旅館に滞在して沼之上のわが家へ帰ってきた。その時はもう、明治十二、三年になっていたのである。裕八郎は日ごろ名勝旧跡、神社仏閣などを探るのが趣味で、読書も好み甚だ快活な生活の持ち主であったが、四万温泉の旅から帰ってくると、急に人柄が憂鬱になったのである。青年らしく肥った茶色の皮膚は、次第々々に痩せて顔が蒼ざめて行く。母は一粒種のわが子のからだの衰え行くのを見て、ひどく心痛して明け暮れ、その原因について尋ねたけれど、裕八郎は黙してなにも語らない。鼻下や顎に、無精髭さえ生えてきた。日ごろ身綺麗にするのを好んだが、その気持ちも忘れたのであろうか。
そのまま、一、二年過ぎた。母は、嫁を迎えてやれば息子の気持ちが子供の時のような明朗に返るのではあるまいかと考えて、結婚談を持ちだした。ところが、裕八郎はこれに反対するのでもなければ賛成するのでもなかった。ただ黙々として、母が如何なることをいっても、首で頷くばかりであったのである。
明治十三年晩春、利根の下流の武州八斗島から、ふゆという嫁を迎えた。裕八郎二十三歳、ふゆは二十一歳の愛らしい花嫁であった。
翌年の初夏には、可愛らしい丸々と肥った坊やが生まれたのであるから、別段夫婦仲が悪かったわけではない。母のたみは、初孫を見て喜んだ。これで家族が四人になったと近所の人々を招いて賑やかな振舞ごとまで催したのである。それと反対に、裕八郎は子供が生まれてから一層、性格が暗くなってきたように思う。
その年の秋、ちょうど二、三年前、裕八郎が四万温泉へ旅立った日がきたと思うころ、彼はある夕の灯ともしの時刻にふらりと行衛不明となってしまった。母にも妻にも、一言もいい遺さない。遺書もない。
裕八郎は、四万温泉から帰ってきてからというもの、いつも秋がくると三角州の果てに続く利根の河原に出て北の方を望み、榛名山と小野子山との峡に、遙かに綿々として聳える上越国境の国越えの三国連山の初雪に手を翳《かざ》し、なにか口に低く唱えている姿を、幾人も村人が見て知っていた。
たみ女も、ふゆ女も愕然としたけれど、裕八郎の行衛には、まったく手がかりがなかったのである。
三
石坂家の家族は、また僅かに三人で大きな邸に住まわねばならぬようになった。孫の雅衛は成長して十八歳になった冬である。明治三十一年である。
ある日、石坂儀右衛門遺族殿という手紙が石坂家へ配達された。差出し人は、茨城県鹿島郡麻生町の一青年某というのである。私が数日前、霞ヶ浦の枯蘆《かれあし》のなかを散歩していると、小径から四、五歩離れたところに、小さな一つの石碑を発見した。碑面に、水戸浪士石坂儀右衛門之墓とあり、裏に儀右衛門は上野国佐波郡芝根村沼之上の産、文政十二年出生、文久三年玉造町の役にて斬死し屍を茲《ここ》に運び来って葬る。と、ばかり書いてあった。碑は苔蒸し土にまみれ碑頭は鳥の糞に汚れて弔う人もない姿であるが、もしこの手紙が遺族の人の手に届いたならば遙かに線香でも立ててやったならばどうであろうかという甚だ奇特な書翰であった。
雅衛の祖父に儀右衛門と呼ぶ人物があったことは、村役場ではもちろん、村の老人たちも誰一人知らぬものはないのである。だから、この手紙は少しもまごつくことなく、雅衛のところへ配達されたのである。
祖母のたみは手紙を読んで、眼がくらくらとした。たみは、六十五歳になっていた。すぐ家族三人で相談し、雅衛に遠い親戚の中年の男を付添いとし、常陸国の麻生まで急がせた。二人は手紙の主を尋ねて厚く礼を述べ、その案内によって祖父儀右衛門の墓に詣でた。墓は湖畔の枯蘆のなかに、遠い幕末の夢を結んでいた。近くの寺から僧を頼み、経をあげて貰ったのである。香烟が、低く冬の湖の水の上を流れた。
雅衛は、祖父儀右衛門がどんな死に態をしたのであるか、麻生の町の古老を、あちこち訪ねて問うたけれど、それは皆目知る人とてはない。ただ、それだけで雅衛は沼之上の家へ帰ってきた。
明治三十五年、雅衛は二十二歳のとき、利根川の上流末風村から、みよと呼ぶ十七歳の若い花嫁を迎えた。孫に嫁を迎えた喜びも束の間、たみは六十九歳を最後に他界したのである。また家族は母と息子夫婦の三人となったが、三十七年の日露戦争がはじまった年に嫁さんは男の子を生んだ。これに、清一となづけた。清一が二歳となった翌三十八年の盛夏のころ、雅衛はこれも突然姿を晦《くら》ましてしまったのである。なんたる運命に魅入られた石坂家であろう。
清一は二十三歳のとき、大正十五年武州児玉郡大幡から、嫁のきみを入れた。利根川の対岸宮郷村から嫁にきた裕八郎の妻ふゆは、孫清一が結婚する二年前の、大正十三年に一生を終わっている。
嫁のきみが、昭和三年に男の子を生んだので、雅衛のところへ十七歳でよめにきたみよは、四十四歳ではじめて祖母になった。嫁が子供を生むと母のみよは、当家に伝わる運命の日がやがて来るのであろうことを予知して、息子清一の一挙一動に注意を怠らなかった。村の鎮守さまはもちろんのこと、信州の善光寺さまへも、紀州の高野山へも一家安泰を願かけた。賢彌となづけた孫が二歳となった春など、自ら旅支度を整えて、善光寺から越前の永平寺へ、京都の神仏を歴詣し、高野山から伊勢大神宮へ出て、成田の不動さままで頼んで沼之上の家へ帰ってきた。
しかし、その甲斐はない。
祖父の裕八郎が家出したと同じころの秋がきたとき、これもまた掻き消すように長屋門の前から姿を消した。祖母のみよは、狂気のようになって悲しみ、清一や清一やと、毎日泣き叫んだが、詮ないことであった。
どの嫁もどの嫁も必ず男の子を生むこと、その子が二歳になると必ず当主が家出して、行衛不明となるということが、この近郷近村の謎のたねとなっている。これは、石坂家では美しい男ばかり生むから、越後国彌彦山に棲む※[#「玄+少」、第4水準2−80−57]太郎婆あさんと呼ぶ雪女に、攫《さら》われて行くのであると村人は信じているのであるという。
四
昭和二十一年の雪解けの季節、つまり今年のゆく春のころである。賢彌は、村の青年たち数人と共に草津温泉から渋峠を越えて、信州の熊の湯へ旅行を志した。賢彌は、十九歳になっている。
草津温泉を出発して一里半、真っ白に聳える白根火山を行く手に見る香草温泉あたりに雪割草が咲いていた。雪解け頃というけれど、香草温泉からの登りは、流石《さすが》に未だ雪が深かった。それに、次第々々に坂道は匂配を加えてきた。標高六千余尺の上信の国境をなす渋峠の頂上まで達したときには、日ごろ健脚でない賢彌は友人から十数町も引き離されて遅れていた。雪の上を、一人でとぼとぼと歩いていた。
すると、うしろから、
「賢彌、賢彌」
と、呼ぶ者がある。この積雪の山中で、わが名を呼ぶ者はいない筈だ。妙なことである。あるいは耳の錯覚ではないかと考えたが、それでも後ろを振り見た。見ると頭髪も鬚髯も真っ白な老爺が雪の上を歩いてくる。熊の皮の甚兵衛を着て、もんぺと雪踏《せった》をはいているのである。賢彌に近づくと、
「お前は賢彌じゃろうな、するとお前はわしの曾孫《ひまご》じゃ」
白髪の老人であるが淡紅の童顔に、声も若い。突然、こういわれても賢彌には、どういう意味のことであるか分からぬ。ただ、面喰らうよりほかなかった。
「さとれぬか、そうでもあろう」
と、老爺はひとりで呟いた。そのとき賢彌の胸に、祖母からきいた話の、遠い記憶が甦ってきた。
「では、あなたは裕八郎お爺さんではありませんか」
賢彌は、凝乎《じっ》と老爺の顔を見た。
「そうじゃ、分かったか」
莞爾として老爺は、顔を綻ばせた。
「まだお達者でいたのですか」
「達者じゃ、矍鑠《かくしゃく》としちょる。沼之上へ帰ったら皆の者によろしく伝えてくれ」
「もうお爺さんは、九十幾歳にもなるじゃありませんか。なんで、こんな山の中へ入り込んで暮らしているのです、一緒に帰りましょうよお爺さん。沼之上の家で皆が待っていますよ」
「そうはゆかぬ」
「どうしてお爺さん、そのわけ聞かせてくださいよ」
「お前に話しても理解はゆくまいがな、わしは沼之上の家を
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