ちに襲われて、賢彌は三里の下り路を、猿ヶ京の乗合自動車の立場まで、喪心して走った。立場まで走りついたとき、ついに身を支えきれなくなって、思わず路傍の草によろよろと崩れ伏した。
 その日の夕方、沼之上の家へ帰って、賢彌は祖母と母に法師温泉で見た妖女の話を語った。これをきいた祖母と母は、ただ一言、
「そうかね」
 といっただけであったが、二人の顔には暗い表情が掠め去った。
 沼之上の農村は、利根川と烏川と合流する三角州の上に群がっている。賢彌の家は東に利根の河原へ続き、南方には烏川が西から東へ流れて遠く明るい見晴らしを持っていた。西川渓谷が赤谷川へ落ち込み、赤谷川は大利根へ合流し、利根川はさらに流れ流れて三十里の下流、賢彌の家に近い岸を洗っている。
 その後、なにごともなく夏が過ぎ秋がきた。爽やかな風が吹く十月下旬の陽《ひ》が、遙かに西方信州境の荒船山に落ちて間もないある黄昏のことである。秋は空気が澄んでいたためであろうか、陽が落ちて夕暗が樹かげや、家のかげから忍び寄ってきても、路行く人の顔は、はっきり見えるものである。賢彌は読書に飽きて庭に立ち、ぼんやり門のそとをながめていた。
 ところ
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