樹々の梢が芽吹く季節は、一年中で最も快い。賢彌は、走る乗合自動車の窓から北方を眺めた。視線の届くところに、翁の眉毛のように幾筋もの白い残雪を、山襞に輝やかした谷川岳が間近に高く聳えていた。
 宿について、二、三日は、なにごともなかった。ところで、ある夜賢彌は更けるまで雑誌を読んでいた。時計を見ると、午前二時近くなっていたのである。一風呂浴びて床へ入ろうと考え、手拭さげて風呂場へ行った。
 賢彌の室は、新築した大きな別館の二階で、階段を降りて廊下を左へ曲がり、廊下はそのまま西川渓流の橋となっていて、橋が尽きるとまた左へ曲がり、暗い廊下が尽きたところの左側が風呂場になっていた。
 風呂場には、小さい石油洋灯の淡い光が、浴槽の面をぼんやり照らしていた。法師温泉へはいまでも送電線がきていない。どの室にも、風呂場にも石油洋灯を用いているのである。
 曵戸《ひきど》の格子から風呂場を覗くと、広い浴槽の向こうの正面の片隅に、誰か人が一人湯に浸っている。この夜更けに誰かと思って賢彌は瞳を凝らした。ゆらゆらと立ち昇る湯気のために、はっきりと分からないが、女であるらしい。賢彌は、ちょっとためらった。し
前へ 次へ
全27ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐藤 垢石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング