伝えられている。
一体、赤谷川の本流に添うて笹の湯、さらにその上流に古川温泉などがあるのであるけれどなにを好んで近くの温泉を求めず猿ヶ京、吹路、合瀬《かつせ》、永井などをへて遙々と法師温泉の湯槽に浸るのであろうか。それは、人間には分からない。
法師温泉の主人岡村宏策老に、このことについて問うと、老は高らかに笑ってはっきりとは語らぬが、三、四年前の晩春の夜半に、それらしい姿を浴槽の湯口のあたりに、幻のように、わが視線に映じたこともあったと答えるのである。その言葉から判断すると、この地方に伝えられる話にどこかいわれがあるのであると思う。
ところで、この美しい岩魚の姿を、ついちかごろ法師温泉の浴槽のなかで実際に見た人がある。それは、石坂賢彌であった。
賢彌は昨年の五月の末、山に漸く早春が訪れたばかりの法師温泉へ旅したのである。三国街道の入口、利根川の月夜野橋のあたりは、もう若葉が青葉に移る季節を迎え、流れの岸に青嵐が樹々の重い梢を揺すっていたが、後閑駅から西方八里奥にある法師温泉をめぐる山々や谷々は銀鼠色のやわらかい嫩葉《わかば》が、ほんの少しばかり芽皮を破った雑木林に蔽われていた。
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