の謎のたねとなっている。これは、石坂家では美しい男ばかり生むから、越後国彌彦山に棲む※[#「玄+少」、第4水準2−80−57]太郎婆あさんと呼ぶ雪女に、攫《さら》われて行くのであると村人は信じているのであるという。

  四

 昭和二十一年の雪解けの季節、つまり今年のゆく春のころである。賢彌は、村の青年たち数人と共に草津温泉から渋峠を越えて、信州の熊の湯へ旅行を志した。賢彌は、十九歳になっている。
 草津温泉を出発して一里半、真っ白に聳える白根火山を行く手に見る香草温泉あたりに雪割草が咲いていた。雪解け頃というけれど、香草温泉からの登りは、流石《さすが》に未だ雪が深かった。それに、次第々々に坂道は匂配を加えてきた。標高六千余尺の上信の国境をなす渋峠の頂上まで達したときには、日ごろ健脚でない賢彌は友人から十数町も引き離されて遅れていた。雪の上を、一人でとぼとぼと歩いていた。
 すると、うしろから、
「賢彌、賢彌」
 と、呼ぶ者がある。この積雪の山中で、わが名を呼ぶ者はいない筈だ。妙なことである。あるいは耳の錯覚ではないかと考えたが、それでも後ろを振り見た。見ると頭髪も鬚髯も真っ白な老爺が雪の上を歩いてくる。熊の皮の甚兵衛を着て、もんぺと雪踏《せった》をはいているのである。賢彌に近づくと、
「お前は賢彌じゃろうな、するとお前はわしの曾孫《ひまご》じゃ」
 白髪の老人であるが淡紅の童顔に、声も若い。突然、こういわれても賢彌には、どういう意味のことであるか分からぬ。ただ、面喰らうよりほかなかった。
「さとれぬか、そうでもあろう」
 と、老爺はひとりで呟いた。そのとき賢彌の胸に、祖母からきいた話の、遠い記憶が甦ってきた。
「では、あなたは裕八郎お爺さんではありませんか」
 賢彌は、凝乎《じっ》と老爺の顔を見た。
「そうじゃ、分かったか」
 莞爾として老爺は、顔を綻ばせた。
「まだお達者でいたのですか」
「達者じゃ、矍鑠《かくしゃく》としちょる。沼之上へ帰ったら皆の者によろしく伝えてくれ」
「もうお爺さんは、九十幾歳にもなるじゃありませんか。なんで、こんな山の中へ入り込んで暮らしているのです、一緒に帰りましょうよお爺さん。沼之上の家で皆が待っていますよ」
「そうはゆかぬ」
「どうしてお爺さん、そのわけ聞かせてくださいよ」
「お前に話しても理解はゆくまいがな、わしは沼之上の家を出て以来、この信州と上州の国境に聳える横手山の洞窟に齢老いた野守《のもり》と夫婦の暮らしを営んでいる。これから先、幾百年も幾千年も、このままこのあたりにいるであろうが、わしに逢いたいと思うたら、なん時なりと、この渋峠の頂へ来るがよい」
「野守といいますと?」
「それは、説明せぬがよかろう」
 こう老爺が答えたとき、賢彌は自分が友人達に遠く遅れていることに気がついた。と同時にちょっと後ろを振り向いた。もちろん脚力の強い人々が遠く往ったのであるから賢彌の眼に見えるわけではないから、再び老爺の方を振り向くと、そこにはもうなに者の影もなかった。ただ、雪の峠路が続いているばかりである。
 老爺の姿は、幽風のように消え去っていた。

  五

 沼之上の家へ帰った賢彌は、挨拶が済むと直ぐ、渋峠の頂で曾祖父の姿に逢った次第を物語った。祖母みよはこの話をきいて、深く心に思い当たるところがあったのである。
 それは、姑のふみ女が存命の折り、姑は嫁にときどき、わたしの良人裕八郎は、どこか遠い遠い山の魔に魅せられていた。と、話したことのあるのを記憶していたからである。祖母のみよは、うっとりとして孫の物語をきいた。
「おばあさん、野守というのはなんですか」
 こう、賢彌は祖母に問うたのである。祖母は、野守の伝えごとについて知っていた。
「野守というのか、それは大蛇です。雌の大蛇が千年の寿を亨《う》けると、胴体に四つの肢を生じて妖精となると聞きました。その妖精は、美男を求めて、その生血を吸うと伝えられているから、あるいはお前のひいお爺さんは、その野守に生きながら魅入られてしまったのではないでしょうか」
 と、説きまた自らも判断したのである。しかし、みよ女の想像は当たっていた。明治十一年から十二年の秋、裕八郎が四万温泉へ遊んだとき、彼は一日小倉の滝あたりへ散歩したことがある。その折り裕八郎は、滝に近い山径で一人の若い美女に逢ったが、ふとした言葉の交換から、ついに将来を契ったのであった。
 そのために裕八郎は、小倉の滝からさらに十里も奥の横手山に棲む野守の精に、若い生命を捧げる運命を持つことになったのである。
「賢彌、もうそんな寂しい話はやめましょうよ。ですがね、もうお前も子供ではないのですから、石坂家に伝わる男の悲しい運命を知っていると思います。ですから、やがてお前の身の上にも、その運命がめぐ
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