ってくるのでありましょう」
「おばあさん、僕にも分かっています」
賢彌は、悄然と微笑した。
「ところでね賢彌、一人生まれて一人失うという歴史では、石坂家は未来永劫家族は増えませんね。ですからね、今度お前が嫁さんを貰うとき、一度に三人お嫁さんを迎えてくれないか。そして、一度に三人子供を生んでくれないものかね、ははは」
祖母は、悲しい話を笑いに紛らした。母のきみ女も傍らにこれをきいて眼をしばたたいた。
「おばあさん、僕一度に三人なんか嫁さんを貰うのはいやですね」
賢彌は、馬鹿々々しいといった顔で笑ったのである。
家族三人で囲んだ爐の榾火に、どこからともなく忍んできた隙間風が、ちょろちょろと吹いて過ぎた。
六
奥利根地方の温泉郷へ旅するとき、上野駅をたって高崎、新前橋、渋川駅と過ぎ、大利根川の鷺石鉄橋を渡ってから沼田駅を発車し、高橋お伝の生家のある後閑駅へくる少し手前で、汽車の窓から西方を眺めると、月夜野橋の下流数町の河原に、利根川へ合する大きな峡流を観るであろう。これが、赤谷川渓谷である。
赤谷川は、標高僅かに六千五百尺内外であるけれど、登山者の生命を奪うことで知られている上、上越国境の谷川岳と、その西に隣し万太郎山との間に割り込んだ深渓から源を発している水量豊富な、そして恐ろしく高い胸壁の底を縫って出る人跡を寄せつけぬ渓流である。谷川岳と万太郎山との南面の山襞には、四季雪の消え去ることがない。雪解水が、春から秋まで朽葉を濡らし、古苔を浸して渓に滴るので、赤谷川の水はいつでも手を切られるように冷たい。
それが、急傾斜の山骨の割れ目を流れ走って五里下流の笹の湯温泉のしも手までくると、西方の峡谷から一本の渓流が合する。これを、西川という。
上州と、越後を結ぶ三国峠から一里下った谷間に法師温泉があるが、西川はこの法師温泉の奥に水源を持っているのである。赤谷川は、西川渓流を合わせると、さらに水量を増して西南五里の利根本流へ向かって奔下して行く。
その途中に、幾つも深い淵があるけれど西川との合流点から十町ばかり下流、水の力が何百万、何千万年かの長い時間に、南岸の山裾を截り削った樋のように巌峡を過ぎ、少しかみ手に深い大きな瀞がある。蒼碧、藍を溶いたのかと思うほどの色が淵に漂い、岩のかげには緩やかな渦が巻き、象牙色の積泡が浮いて流れ、淵尻に移ろうとするところは、水が澱んで甕の面を覗いたように、とろとろとして瀞は動かぬ。
水際に立つと、自ら悽愴の気を催す淵である。この地方の人々は、これを相俣の淵と呼んでいるのである。
この淵に、よほど古い昔から恐ろしく大きな岩魚《いわな》が棲んでいた。淵の、主である。魚画を描いて日本随一と称せられる岸浪百艸居翁の研究したところによると、岩魚の相貌には男型と女型の二種あるというが、相俣淵の主は女型に類する方であった。
悪食の上に縦横無尽に行動する岩魚は、鋭い歯を持って口は深く割れ、丸い大きな眼に、いかめしい顔の造作を備えている。しかし、女性型の岩魚は男性型に比べて、顔の容に一種の優しみを持っているので区別されるのである。殊に背の鱗は青銀色に、腹の方の膚は白銀色に、体側には両面の肩から尾筒に至まで、朱く輝く瑠璃色の斑点を鏤《ちりば》めたように浮かせ、あまたの魚類のうちで岩魚は、まれに見るおしゃれであるのである。その麗容な岩魚の泳ぐ大きな姿を、晩秋の水の澄んだ真昼に、ときどき村人が淵の中層に見るという。
七
相俣淵の岩魚は、夜な夜な法師温泉の湯槽に美しい姿を現わすということも、この地方の人々に語り伝えられている。
一体、赤谷川の本流に添うて笹の湯、さらにその上流に古川温泉などがあるのであるけれどなにを好んで近くの温泉を求めず猿ヶ京、吹路、合瀬《かつせ》、永井などをへて遙々と法師温泉の湯槽に浸るのであろうか。それは、人間には分からない。
法師温泉の主人岡村宏策老に、このことについて問うと、老は高らかに笑ってはっきりとは語らぬが、三、四年前の晩春の夜半に、それらしい姿を浴槽の湯口のあたりに、幻のように、わが視線に映じたこともあったと答えるのである。その言葉から判断すると、この地方に伝えられる話にどこかいわれがあるのであると思う。
ところで、この美しい岩魚の姿を、ついちかごろ法師温泉の浴槽のなかで実際に見た人がある。それは、石坂賢彌であった。
賢彌は昨年の五月の末、山に漸く早春が訪れたばかりの法師温泉へ旅したのである。三国街道の入口、利根川の月夜野橋のあたりは、もう若葉が青葉に移る季節を迎え、流れの岸に青嵐が樹々の重い梢を揺すっていたが、後閑駅から西方八里奥にある法師温泉をめぐる山々や谷々は銀鼠色のやわらかい嫩葉《わかば》が、ほんの少しばかり芽皮を破った雑木林に蔽われていた。
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