樹々の梢が芽吹く季節は、一年中で最も快い。賢彌は、走る乗合自動車の窓から北方を眺めた。視線の届くところに、翁の眉毛のように幾筋もの白い残雪を、山襞に輝やかした谷川岳が間近に高く聳えていた。
 宿について、二、三日は、なにごともなかった。ところで、ある夜賢彌は更けるまで雑誌を読んでいた。時計を見ると、午前二時近くなっていたのである。一風呂浴びて床へ入ろうと考え、手拭さげて風呂場へ行った。
 賢彌の室は、新築した大きな別館の二階で、階段を降りて廊下を左へ曲がり、廊下はそのまま西川渓流の橋となっていて、橋が尽きるとまた左へ曲がり、暗い廊下が尽きたところの左側が風呂場になっていた。
 風呂場には、小さい石油洋灯の淡い光が、浴槽の面をぼんやり照らしていた。法師温泉へはいまでも送電線がきていない。どの室にも、風呂場にも石油洋灯を用いているのである。
 曵戸《ひきど》の格子から風呂場を覗くと、広い浴槽の向こうの正面の片隅に、誰か人が一人湯に浸っている。この夜更けに誰かと思って賢彌は瞳を凝らした。ゆらゆらと立ち昇る湯気のために、はっきりと分からないが、女であるらしい。賢彌は、ちょっとためらった。しかし、先客があるからといって風呂へ入らぬわけにはゆかぬ。曳戸を開けた脱衣場の棚へ衣物を投げ込み、浴槽のなかへ静かに入った。
 果たして、女であった。賢彌は、静かに湯へからだを浸したつもりではあるけれど、湯は音をたてた。だが、女は別段驚いた風もなく、凝乎と賢彌とは反対の方へ向いたまま、浴槽の一隅に浸っている。だから、賢彌は女のうしろ姿を見ているわけである。ところで、うしろ姿から察すると、若い婦人であることはたしかであると思う。
 法師温泉の、この長方形の浴槽は甚だ大きなものである。一方の隅から、一方の隅までは少なくとも四間半はあるであろう。浴槽の面を漂う湯気を通して、朧《おぼろ》な女のうしろ姿をながめながら、賢彌は静かに湯のなかに脚を伸ばしていた。
 暫くすると女は、湯から出て流し場へ上がり、全身をあきらかに現わした。その、うしろ姿を見て賢彌は、からだ中の血が一瞬に頭へのぼったように、じいんとした凄気を催したのである。豊かな肉付き、なめらかな白いうなじ、両腕、そして肩から背に移る曲線を蔽う皮膚。
 だが、腰から下は大きな魚体であったのである。順序正しく並んだ銀鱗が、はっきりと見える。賢彌は、はっとして一度眼を瞑《つぶ》ったが、さらにしっかりと見直した。けれど、はじめて見た姿と、なんの変化もない。女は手拭を絞って、湯に濡れた顔や体の皮膚を拭い終わると、うしろを振り向いて賢彌に、にこやかな視線を送った。ほんのりと紅い貌《かお》、澄んだ眼、微笑の中心に座す筋の通った鼻、黒く長い髪。眼ざめるばかりの、若い麗人であった。まだ二十歳は過ぎてはいまい。
 魅殺されたように、賢彌は夢心地になって美しい人の顔を見た。と同時に麗人のからだは、ひとりでに宙に浮いて、そのまま風呂場の窓から、そとの闇に吸い込まれるように、消え失せたのである。
 窓の闇から、西川渓谷の瀬音が、ただ淙々《そうそう》と響く。
 しばし荘然としていた賢彌は、われに返りうしろからつままれる怖さで、浴衣を抱えたまま自分の室へ飛び帰った。

  八

 翌朝、賢彌は急いで法師温泉を立った。学校が終わって、もう用事のない身であるから、悠々と滞在する予定であったのであるけれど、続いてここに滞在する気持ちになれなかったのである。
 西川渓谷に添うて、猿ヶ京の乗合自動車発着場まで三里の山路を急いで歩きはじめた。宿から数十町下ると、西川に渓流がさらに一段と谷底へ刳《えぐ》り込まれ、滝となって落ちる崖の上の路へ出た。そこは、高い絶壁を境として路が右に折れているから、行く手からこちらへ来る人の姿を望むことはできないのである。賢彌は、その絶壁の角を左へ曲がろうとしたとき、だしぬけに正面を曲がって出た人の姿に出会った。
「あっ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 賢彌は、背中から冷水を浴びせかけられたように慄然とした。昨夜の夜半に、風呂場で見た半人半魚の麗人が、数歩前を自分の方へ向かって、窈窕《ようちょう》として歩を運んでくるではないか。
 だが、今朝は半人半魚の姿ではない。華麗で、しかも気品の高い色合いの袷《あわせ》を着て、足に革草履をはいている。
 麗人と、賢彌の視線が合った。しかし、麗人は昨夜のような美しい微笑を頬に浮かべなかった。路幅およそ二間半、女は崖端に近い方をしとやかに歩いて往き交った。賢彌の視線から、おのれの視線をはずすと、すぐ眼を伏せて行くのである。賢彌は、かつてこんなに美しい女を見たことがない。
 走った。まっしぐらに走った。怖いというのか、凄いというのか、わが魂が飛び去ったというのか、名状し難い気持
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