て、母が如何なることをいっても、首で頷くばかりであったのである。
 明治十三年晩春、利根の下流の武州八斗島から、ふゆという嫁を迎えた。裕八郎二十三歳、ふゆは二十一歳の愛らしい花嫁であった。
 翌年の初夏には、可愛らしい丸々と肥った坊やが生まれたのであるから、別段夫婦仲が悪かったわけではない。母のたみは、初孫を見て喜んだ。これで家族が四人になったと近所の人々を招いて賑やかな振舞ごとまで催したのである。それと反対に、裕八郎は子供が生まれてから一層、性格が暗くなってきたように思う。
 その年の秋、ちょうど二、三年前、裕八郎が四万温泉へ旅立った日がきたと思うころ、彼はある夕の灯ともしの時刻にふらりと行衛不明となってしまった。母にも妻にも、一言もいい遺さない。遺書もない。
 裕八郎は、四万温泉から帰ってきてからというもの、いつも秋がくると三角州の果てに続く利根の河原に出て北の方を望み、榛名山と小野子山との峡に、遙かに綿々として聳える上越国境の国越えの三国連山の初雪に手を翳《かざ》し、なにか口に低く唱えている姿を、幾人も村人が見て知っていた。
 たみ女も、ふゆ女も愕然としたけれど、裕八郎の行衛には、まったく手がかりがなかったのである。

  三

 石坂家の家族は、また僅かに三人で大きな邸に住まわねばならぬようになった。孫の雅衛は成長して十八歳になった冬である。明治三十一年である。
 ある日、石坂儀右衛門遺族殿という手紙が石坂家へ配達された。差出し人は、茨城県鹿島郡麻生町の一青年某というのである。私が数日前、霞ヶ浦の枯蘆《かれあし》のなかを散歩していると、小径から四、五歩離れたところに、小さな一つの石碑を発見した。碑面に、水戸浪士石坂儀右衛門之墓とあり、裏に儀右衛門は上野国佐波郡芝根村沼之上の産、文政十二年出生、文久三年玉造町の役にて斬死し屍を茲《ここ》に運び来って葬る。と、ばかり書いてあった。碑は苔蒸し土にまみれ碑頭は鳥の糞に汚れて弔う人もない姿であるが、もしこの手紙が遺族の人の手に届いたならば遙かに線香でも立ててやったならばどうであろうかという甚だ奇特な書翰であった。
 雅衛の祖父に儀右衛門と呼ぶ人物があったことは、村役場ではもちろん、村の老人たちも誰一人知らぬものはないのである。だから、この手紙は少しもまごつくことなく、雅衛のところへ配達されたのである。
 祖母のたみは手紙を読んで、眼がくらくらとした。たみは、六十五歳になっていた。すぐ家族三人で相談し、雅衛に遠い親戚の中年の男を付添いとし、常陸国の麻生まで急がせた。二人は手紙の主を尋ねて厚く礼を述べ、その案内によって祖父儀右衛門の墓に詣でた。墓は湖畔の枯蘆のなかに、遠い幕末の夢を結んでいた。近くの寺から僧を頼み、経をあげて貰ったのである。香烟が、低く冬の湖の水の上を流れた。
 雅衛は、祖父儀右衛門がどんな死に態をしたのであるか、麻生の町の古老を、あちこち訪ねて問うたけれど、それは皆目知る人とてはない。ただ、それだけで雅衛は沼之上の家へ帰ってきた。
 明治三十五年、雅衛は二十二歳のとき、利根川の上流末風村から、みよと呼ぶ十七歳の若い花嫁を迎えた。孫に嫁を迎えた喜びも束の間、たみは六十九歳を最後に他界したのである。また家族は母と息子夫婦の三人となったが、三十七年の日露戦争がはじまった年に嫁さんは男の子を生んだ。これに、清一となづけた。清一が二歳となった翌三十八年の盛夏のころ、雅衛はこれも突然姿を晦《くら》ましてしまったのである。なんたる運命に魅入られた石坂家であろう。
 清一は二十三歳のとき、大正十五年武州児玉郡大幡から、嫁のきみを入れた。利根川の対岸宮郷村から嫁にきた裕八郎の妻ふゆは、孫清一が結婚する二年前の、大正十三年に一生を終わっている。
 嫁のきみが、昭和三年に男の子を生んだので、雅衛のところへ十七歳でよめにきたみよは、四十四歳ではじめて祖母になった。嫁が子供を生むと母のみよは、当家に伝わる運命の日がやがて来るのであろうことを予知して、息子清一の一挙一動に注意を怠らなかった。村の鎮守さまはもちろんのこと、信州の善光寺さまへも、紀州の高野山へも一家安泰を願かけた。賢彌となづけた孫が二歳となった春など、自ら旅支度を整えて、善光寺から越前の永平寺へ、京都の神仏を歴詣し、高野山から伊勢大神宮へ出て、成田の不動さままで頼んで沼之上の家へ帰ってきた。
 しかし、その甲斐はない。
 祖父の裕八郎が家出したと同じころの秋がきたとき、これもまた掻き消すように長屋門の前から姿を消した。祖母のみよは、狂気のようになって悲しみ、清一や清一やと、毎日泣き叫んだが、詮ないことであった。
 どの嫁もどの嫁も必ず男の子を生むこと、その子が二歳になると必ず当主が家出して、行衛不明となるということが、この近郷近村
前へ 次へ
全7ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐藤 垢石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング