牛を土手の中腹まで押しあげてしまった。その力、その技術。人々は、あっけに取られて、ただ茫然たるのみ。
 小形の赤牛、大形の黒牛を、もののみごとに破ったのだ。
 牛方が、双方の牛の後脚へ綱をかけた、そして、数人がその綱を握って後ろへ力まかせに引いた。だが、牛はまだ闘いを止めようとはしない。僅かに、角と角とが離れたとき飛鳥の速さをもって若い牛方が二、三人、牛の角へ飛びついた。牛は頭を振った。だが、牛方は角を離さない。
 もし、その乱闘の間に角で脾腹でも刺されたら、そのまま牛方は即死だろう。格闘、真に必死の人間と猛牛の闘いだ。牛方の顔面に、男性美が横溢する。
 ついに、牛と牛は左右へ遠く分けられた。人々は、陶酔からさめてほっとした。

  四

 前頭級の牛でさえ、凄絶の角闘である。これが横綱級にまで取り進んだら、どんな猛争をするであろうと、興味は次第に増すばかりである。
 十数番、取り進んだとき、竹沢村の彌藤兵衛牛と塩谷村の次郎衛門牛とが顔を合わせた。彌藤兵衛牛は、漆黒の毛艶で腹が白い。まことに美しい大きな牛である。二百二、三十貫はあろうか。
 これに対して次郎衛門牛は栗毛の二百貫前後の牛だ。双牛、いずれも鋭い角の持ち主だ。双牛、場内を一巡して顔を合わせ、さて飼主が互いに呼吸をはかって、鼻糜を抜こうとすると彌藤兵衛牛は妙に怯えた風で尻ごみをする。周囲を取り巻いた牛方が、イヤイー、イヤイーと声援するけれど、とうとう彌藤兵衛牛は、全身の筋肉を細かく慄《ふる》わせて、折りあらば逃げ出そうとする動作を示す。不戦、次郎衛門牛の勝ち。
 牛は、まことに怜悧であって、顔を合わせた瞬間、敵の気力と闘志を見て、敵わずとさとれば、戦わずして兜を脱ぐものだそうである。きょうは小形の赤牛に分がよく、大形の黒牛には運が悪い。
 二十数番取り進んで、きょうの結び相撲である浦柄村の杢平《もくへい》牛と、大内村の孫七牛とが東西から巨姿を現わした。杢平牛は数年間横綱を張っている戦場往来の古|強者《つわもの》だ。黒い肌を生漆のように艶々しくみがきあげた毛並みの下に、一|尋《ひろ》もあろうと思える肉が細やかに動いている。七、八歳の男盛りの闘牛だ。
 これに対する孫七牛はまだ五歳。今春、横綱格に昇ったばかりの新進気鋭の若ものである。やはり黒牛だ。この骨格と、肉付きと、毛並みの艶々しさを見て、誰か美を感ぜぬ者があろうか。彫刻、絵画、工芸作品、舞踊、力士の体格などの美。いやいや、自然の美だ。闘牛、それ自身にはなんの作意もない。私は、動物美の極致にうたれた。孫七牛は、杢平牛に比べると少し小さく、二百三十貫位。杢平牛は、二百五十貫以上はあるであろう。
 いままで二十数番見てきた闘牛の仕切りは、殆ど鼻と鼻との間隔が一、二尺程度であったけれど杢平牛と孫七牛の仕切りは、十間以上の間隔を置いてある。これは、何故かと問うて若月氏の説明をきくと、それは不思議に思うのが当然だ。実は、この杢平牛は戦場往来の業師《わざし》で、仕切りの間隔が短いと、いきなり相手の頭といわず面といわず、頸、胸といわず角を突き刺して一挙に凱歌をあげるという手を知っている。
 つまり、相手にわが角の避けるだけの余裕を与えないのだ。もし、その場合に人間が、杢平の戦法を妨げして、相手牛に怪我を与えまいとすると、人間をもひと突きに、突き殺すという恐ろしい奴であるから、仕切りに十分の間隔を置いて、相手牛に身構えの時間を与えるのであるというのだ。
 あっ、鼻糜を抜いた。イヤイー、イヤイーと呼ぶ牛方の声援が起こると、もう四周の崖の上は、雑然|鬧然《とうぜん》として興奮した。ウワーというどよめきが白髪神社を埋める杉の大樹の森を揺すった。
 果たせる哉、杢平牛は神火を纏《まと》う龍の如き、凄まじき姿で、三十間ばかりの間隔を猛然として宙を飛ぶように突っ走った。この牛の角は、特に鋭い。その角を、孫七の頭上目がけて、骨をも通せと突っ込んだ。
 かっ※[#感嘆符二つ、1−8−75] 孫七牛は頭を中段に構えて、この鋭い杢平の鋭鉾をがっちりと受け止めた。二秒、三秒。角と角が絡んで、そこから熱気が沸騰するかと思う。押した。孫七牛が、杢平牛の巨体を押した。西の土手に向かって押した。見物人は興奮、陶酔、戦慄――なにがなんだか分からない。
 杢平牛の巨体が、ずるずるずると、十四、五間うしろへ押された。まだ鼻糜を抜いてから十秒とたっていない。押してくる孫七牛の角を、杢平牛は、するりとはずした。角力《すもう》のいわゆる肩すかしだ。
 相手の角をはずして置いて、杢平牛は相手と頭を揃えて、平行した。つまり、肩と肩をならべて同一方向に立ったのだ。その瞬間、杢平牛はその鋭い左の角で、孫七牛のぼんのくぼへ、ひと突きくれた。
 鮮血が、奔《はし》った。
 双牛の後脚に、
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐藤 垢石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング